オーストラリア初のツール・ド・フランス優勝者となったカデル・エヴァンス(BMCレーシング)。ツール・ド・フランス主催者ASOのクリスティアン・プリュドム氏は初の南半球出身のツール勝者を、サイクルスポーツの国際化のシンボルと形容した。

自転車レーサーとしてのエヴァンスの経歴と、エヴァンスのために構成されたBMCレーシングというチームの両面から掘り下げてみよう。

マイヨジョーヌを着てシャンゼリゼに凱旋したカデル・エヴァンスマイヨジョーヌを着てシャンゼリゼに凱旋したカデル・エヴァンス (c)Makoto.AYANOMTBからロードへ転向 グランツールで着実に成績を残す

エヴァンスの自転車レーサーとしてのルーツはマウンテンバイクにある。
子供の頃、まず14歳でBMXから自転車レースを始めたが、ジュニアジュニア時代にはロードとMTBクロスカントリーの両方で世界選手権に出場し、いずれも3位。U23カテゴリーでは3年連続でMTB世界選で2位、プロのMTB選手となって1998・99年のUCI MTBワールドカップで年間総合優勝している。2000年のシドニーオリンピックのMTB・クロスカントリーでは7位となる。

2001年からはロードレース選手に本格転向。サエコと契約し、欧州を拠点とした活動に入る。ジャパンカップにも来日し、ジルベルト・シモーニ(当時ランプレ)に次いで2位になっている。
マペイ時代の2002年にはジロ・デ・イタリア第16ステージで総合トップに立ちマリアローザを着るが、山岳ステージで脱落。最終的には総合14位に終わっている。しかしグランツール制覇の可能性はここで現実味を帯びだした。

Tモバイルを経て2005年にダヴィタモン・ロットに移籍。同年のツールで総合8位に入る。―※ オーストラリア国籍の選手がツールで総合トップ10入りしたのは、1981年にマイヨジョーヌを着て総合10位、82年と85年に総合5位となるなどの活躍をしたフィル・アンダーソン以来のこと)

2006年にはツール・ド・ロマンディで総合優勝し、ツールでも総合5位。この年は同チームのスプリンター、ロビー・マキュアンのステージ優勝のために編成されたチームで、十分なサポートが受けられなかった。

2007年ツールではアルベルト・コンタドールに次いで23秒遅れの総合2位と、着実に優勝に近づく。

2008年ツール・ド・フランス カルロス・サストレを追うカデル・エヴァンス(サイレンス・ロット)2008年ツール・ド・フランス カルロス・サストレを追うカデル・エヴァンス(サイレンス・ロット) (c)Makoto.AYANO2008年は5日間マイヨジョーヌを着たが、カルロス・サストレ(CSC)と総合優勝をかけて争った第20ステージの個人タイムトライアルで、1分34秒差だったサストレとのタイム差を29秒しか挽回することができず、総合2位に終わった。このときエヴァンスは落車で背中に怪我を負っていて、それが原因で実力が発揮できなかった。

2009年ツールは総合30位に終わる。ツールは不振に見舞われたが、ブエルタ・ア・エスパーニャでは総合優勝をめぐり争う。しかし難関山岳の第13ステージでトップ争いをしている最中にパンクで1分以上を失い、総合2位から6位に下げる。そのタイム差が挽回できず、総合3位に終わっている。
しかしこの年は世界選手権ロードに優勝。世界チャンピオンとなる。翌年BMCレーシングに移籍することを決める。

2010年はジロ・デ・イタリアに出場。優勝候補筆頭に挙げられ総合争いを繰り広げるが、途中で熱を出して体調を崩してしまい、ポイント賞を獲得するも総合5位に終わっている。

ジロに続いて出場したツールでは、第8ステージでマイヨジョーヌを着る。しかしこのステージ前半の落車で肘を骨折していたことを隠しており、休息日明けの山岳ステージで大きく遅れてしまう。怪我と闘いながら完走するが、総合26位に沈んだ。


シャンゼリゼに凱旋するカデル・エヴァンス(BMCレーシングチーム)シャンゼリゼに凱旋するカデル・エヴァンス(BMCレーシングチーム) (c)Makoto.AYANO不運続きのグランツール 2011年ツールは幸運と共に

ここまでのエヴァンスの主な経歴で特徴的なのは、怪我やパンクなどの不運でグランツールに勝つチャンスをいくつも失ってきたことだ。2008年と2010年のツールでの落車の怪我、骨折は、いずれもそれが原因で遅れを喫し、マイヨジョーヌを失っている。
ブエルタのパンク、ジロの発熱など、ただ運がなかったと言うには残念なタイミングでトラブルが起こり、結果を残せなかった。

逆に2011ツールではライバルたちの多くが落車に巻き込まれてレースを去る、あるいはタイムを失う事態になったが、エヴァンスは落車せず、総合順位を4位以下には下げなかった。山岳でアシストできる選手こそいなかったが、「ブルドーザーズ」と呼ばれる選手たちがエヴァンスのポジションを確保し、落車の危険から守り続けた。不運はコンタドールがガリビエ峠へむけてアタックした第19ステージで、そのアタックのタイミングでメカトラブルに見舞われたことぐらい。

オーストラリアの観客たちとクロコダイルに囲まれたカデル・エヴァンスオーストラリアの観客たちとクロコダイルに囲まれたカデル・エヴァンス (c)Makoto.AYANOエヴァンスは2011年ツールを振り返って言う「運は、僕には良かった」。

山岳ステージでは攻撃するライバルたちに対して守りに徹したが、タイムトライアルでアンディ・シュレクとの57秒差を逆転。過去トラブル続きで実現しなかった得意のパターンで初めてのグランツールの勝利を挙げた。しかももっとも目指してきたツール・ド・フランスの勝利だ。


共に歩んできた名トレーナー アルド・サッシ氏

エヴァンスは第20ステージ終了後の優勝者記者会見でこう話す。
「僕は、僕を信じてくれるひとたちに支えられてきた。チームには様々な役割の人がいて、僕を支えてくれている。バイクのエンジニア、スポンサー、皆に感謝している。なかでも、ロードに転向したときに最初にみてもらったコーチのアルド・サッシが、僕の可能性を信じてくれた。彼はいつでも僕を信じてくれた。僕が自分を信じる以上に」。

イタリア人トレーナーのアルド・サッシ氏はイタリア北部のヴァレーゼにあるマペイトレーニングセンターの責任者だった。イヴァン・バッソなども信頼を寄せ、トレーニング指導を仰いできた人物だ。
2001年からエヴァンスのトレーニングをみてきたサッシ氏は、昨年12月に脳の悪性腫瘍により死去。わすか7ヶ月前にエヴァンスの前から姿を消した。ツールでの総合優勝は、サッシ氏がエヴァンスに信じさせてきたことだ。

「彼は僕にこう言ったことがある。君はツール・ド・フランスに勝てる。君は君の世代でもっとも完成された選手だ」。

凱旋門の前に全員揃ってゴールしたBMCレーシング凱旋門の前に全員揃ってゴールしたBMCレーシング (c)Makoto.AYANO

観客席にはBMCのレーシング応援団が陣取る観客席にはBMCのレーシング応援団が陣取る (c)Makoto.AYANOツール優勝を追い求めたBMC、そのレーシングチーム

BMCレーシングチームを語る際、BMCという自転車メーカーとその経営者について触れざるを得ない。
BMCレーシングのスポンサーは名前の通り自転車メーカーのBMCだ。自転車メーカーのチームがチームを運営する例は最近顕著だ。チーム運営とスポンサーの関係が密接な例として、2009年に発足し、2シーズン活躍したサーヴェロテストチームがある。しかし自転車メーカー単体メインスポンサーでのチーム運営は資金的に難しく、ガーミンと合併し、ガーミン・サーヴェロとなっている。BMCレーシングは自転車メーカーが運営するチームの成功例だ。

BMC社オーナーのアンディ・リース氏(左)、ジム・オショヴィッツGM、ジョン・ルランゲ監督(右)(BMC社オーナーのアンディ・リース氏(左)、ジム・オショヴィッツGM、ジョン・ルランゲ監督(右)( (c)Makoto.AYANOBMCレーシングチームが創設以来たどった5年は驚くほど着実な急成長を遂げてきた。しかしBMC自体がたどったプロ自転車チームへのスポンサードの歴史は波乱に満ちている。

2006年のツール・ド・フランスに総合優勝したフロイド・ランディス(アメリカ)のチーム「フォナック」。そのフォナックが乗ったのがBMCのバイクだった。しかし御存知の通りランディスはツール終了翌日にテストステロン陽性となり、マイヨジョーヌを剥奪されてしまう。記録上の優勝者は2位で終えたオスカル・ペレイロ。

BMC社のオーナーはスイス人の資産家アンディ・リース氏。実はこのリース氏は補聴器の会社として世界的に有名だったフォナック社(現ソノヴァ社)の創設者でもある。
自分の2つの会社がスポンサードするチームがツール・ド・フランスに優勝することは、自転車をこよなく愛するリース氏の夢でもあった。

しかし、リース氏はシャンゼリゼでマイヨジョーヌに乾杯した2日後、一転してどん底につき落とされた。フォナックチームはその夏で解散に追い込まれた。

チームオーナーのアンディ・リース氏 2006年以来のマイヨジョーヌに酔うチームオーナーのアンディ・リース氏 2006年以来のマイヨジョーヌに酔う (c)Makoto.AYANOリース氏はその悪夢のようなできごとの翌年に、自転車メーカーが直営するプロチームとしてのBMCレーシングを作った。既存のチームにスポンサードするのではなく、ツール・ド・フランスに優勝するという目的を達成できるチームをイチから作る。つまりBMCレーシングは、マイヨジョーヌ獲得のためのゼロからの再出発としてつくられたチームだ。

そして同時にリース氏は、2007年度はアスタナにBMCのバイクを供給する。しかし今度はアレクサンドル・ヴィノクロフのドーピング陽性発覚によりチームはツールを去る。ヴィノのステージ2勝の記録も剥奪された。

ランディス、ヴィノクロフ、遡ると2004年のタイラー・ハミルトンによるブエルタ・ア・エスパーニャでのドーピング陽性と、スポンサードするチームが次々と不祥事を引き起こしてきた。スポンサーにとってイメージを損なうドーピング事件はダメージが大きい。しかしそれでもリース氏はツール・ド・フランスに勝てる自転車チームの夢を捨てず、BMCのレーシングへの傾倒を強めた。

2007年当時、クリーンな若い選手を中心に構成し、キャプテンはスイスのベテラン選手のアレクサンドル・モース。元コロンビア・セッレイタリアの選手でツール出場経験者のガーヴィン・シルコット氏をゼネラルマネジャーに指名、監督にはフォナックを指揮したジョン・ルランゲを引き続き起用。モトローラ時代の監督ジム・オショヴィッツも後に加入した。

ルランゲ氏は元ツール主催者ASOのプレス担当をしていた人物で、エディ・メルクスが現役時代に所属したチームを指揮した監督の息子にあたる人物。その父親はすでに引退したが、ASOのレースディレクターだった。つまりASO(=ツール・ド・フランス)とのコネクションは最強。

チーム結成当時、掲げた目標は「2009年プロツアーチーム入り」。若い選手、スタッフに経験を積ませながらも、その道のベテランを続々と獲得していく。

そして2010年には、2007年の世界チャンピオンであるアレッサンドロ・バッラン(イタリア)と、2009年世界チャンピオンとなったエヴァンス、ジョージ・ヒンカピー(アメリカ)を獲得する。

スイスに住み、ツール・ド・フランスに勝ちたいエヴァンスと、同じ夢を見るスイスの自転車メーカーの方向は完全に一致した。
マークス・ブルグハート(ドイツ)、マヌエル・クインツィアート(イタリア)ら続々と有力選手を補強し、エヴァンスがツールに勝てる体制を固めていった。
今年のツール出場メンバーであるヒンカピー、ブルグハート、クインツィアートらはいずれもクラシックでエースになれる実力をもつ選手。しかし同時にエヴァンスのツール制覇のためのアシストとして申し分ない働きが期待できる。
コーチンングスタッフとしてスプリンターとして活躍したファビオ・バルダート(イタリア)と契約。チームの体制は万全に整っていった。

リース氏は言う「過去、私のチームばかりなぜこうなるのか?ということばかりが続いたが、今度こそマイヨジョーヌは本物だ。チームが追うのは夢だけじゃない。ビジネスでもある。でなければ私はこの場にはいない」。

BMCは昨年、スイス国内にカーボンフレームを糸から生産可能な「ブラックボックス」と呼ぶ工場を造った。コストダウントの技術の面から台湾や中国などアジア拠点の生産が主流となっているスポーツバイクの製造において、人件費の高いスイス国内で、カーボンクロスの原材料から100%生産するという、時代の流れからすれば常識はずれともいえる経営方針だ。

リース氏は言う「私たちの仕事は最高のバイクを開発すること。そしてツールのようなレースでチームが優勝することは、直接的な広告をせずとも、おのずとプロモーションになる。そして同時に私達BMCのブランドの自転車が、サイクリングという素晴らしいスポーツの普及に役立てればと思う」。

マイヨジョーヌ仕様のバイク BMC Impecを凱旋門に掲げるカデル・エヴァンスマイヨジョーヌ仕様のバイク BMC Impecを凱旋門に掲げるカデル・エヴァンス (c)Makoto.AYANO


text:Makoto.AYANO in France
photo:Makoto.AYANO,CorVos