ツール・ド・フランスの総合ディレクターとして全権の地位にあるクリスティアン・プリュドム氏。イベントのために来日した氏に1時間のスペシャルインタビューを敢行。トップが語るツール・ド・フランスの今とこれから。前後編でお届けします。

都内のホテルでインタビューに応じてくれたツール・ド・フランス総合ディレクター、クリスティアン・プリュドム氏都内のホテルでインタビューに応じてくれたツール・ド・フランス総合ディレクター、クリスティアン・プリュドム氏 photo:Yufta Omata

このような機会を設けていただき、ありがとうございます。まず始めに、今年(2010年)のツール・ド・フランスを振り返って下さい。

「山頂での本物の闘いや、熱狂、比類なき感動によって素晴らしいレースになりました。この2ヶ月は、コンタドールの状況についてどうなるかということが気がかりではありますが。」

今年はコースの設定がよかったと思います。ピレネー100周年を祝う意味でも、アンディとコンタドールによるツールマレ峠での激闘が印象的でした。あなたはこのような展開を事前に予測していたのですか?

壮大な景色が広がる超級山岳オービスク峠の上り壮大な景色が広がる超級山岳オービスク峠の上り photo:Makoto Ayano「ツール・ド・フランスのコースを決める時、もちろん我々は選手たちが美しくも激しいバトルができるように、との願いを込めています。7月の間中、このコースが素晴らしい闘いに用いられているのを見るのは本当に嬉しいことでした。例えば最初の週にはパヴェがありました。この北フランスのルートは信じがたい闘いの場となりましたね。ジュラ地方のステージも同じです。そしてアルプスを通ってツールマレ峠、最後の個人タイムトライアルに至るまで。

7月の終わりの満たされた気持ちは、実際のところこのコース設定によるものです。我々がコースを作るとき、ここでアタックが起こるだろう、ここで何らか問題事が起こるだろうと予想しています。そして先の7月には、そうなった!選手たちは完璧にこのコースを利用してくれた。このコースの設定がそれらすべてを可能にしたのだと思うと、深い満足を覚えますね。

件の決まり文句をもじって、『事をはかるはオーガナイザー、事をなすは選手たち』と言いましょう(注:フランスには、「事をはかるは人、事をなすは天」ということわざがある)。彼らは、我々と、そして選手自身が待望していたことをやってのけました。」

どんな感情をもって、明日、日本のファンに2011年ツール・ド・フランスのコースを発表するのでしょうか?

2009年ツールにて、初出場の新城幸也(日本、Bboxブイグテレコム)とともに2009年ツールにて、初出場の新城幸也(日本、Bboxブイグテレコム)とともに photo:Makoto Ayano「私はすでに2年前に来日してコースプレゼンテーションを行っています。その2年前にはツール・ド・フランスを完走した日本人選手は誰一人いませんでしたね。2009年に別府(史之)、新城(幸也)が完走した今では、状況が変わっています。その夏から別府・新城はツールの区間で好成績を挙げたばかりか、ジロ・デ・イタリア、パリ〜ツール、世界選手権まで!これは新しいことですよね。

新城は初めて世界選手権でフランス人最高位よりも上位につけた日本人選手です。我々フランス人にとっては悲しいことですが(笑)、ピストの伝統のある国日本が、ロードレースの分野でも活躍し始めたというのはエクセレント、素晴らしいことだと言う他ありません。なぜなら、自転車競技は国際化が進んでおり、より多くの成功を国単位で見据えるなら、ひとりのチャンピオンを確立するのが近道だからです。

新城に関して言えば、彼は少しヴァンデアン(ヴァンデ人)でもありますね(笑)。来夏のヴァンデのグランデパールはいい話ではないでしょうか。ジャンルネ・ベルノドー監督のチームがスタートに立つことは想像できることです。新城にとっては新しいツール、それも以前のツールよりも良いツールになるかもしれません。もう彼が今後のツール・ド・フランスで、おそらく来年のツールでステージ優勝を遂げることがあっても、もういまさら驚くことでもありません。」

もし新城がステージ優勝を飾ることがあれば、その時日本はとんでもないことになってしまいますよ!

「ハッハッハ。それはとてもステキなことだね!」

フランスの中でも自転車競技が盛んなヴァンデ地方がグランデパールに選ばれる一方で、皮肉にも来期プロチームに選ばれたフランスのチームは一つだけです。ツール・ド・フランスのフランスチーム出場の可能性が少なくなったことについてどうお考えでしょうか?

「そうです、今、新しい世界ルールが適用されています。良い点は、ただ一つの最高峰のレースカレンダー、『ワールドカレンダー』が用意されているということです。そして、ツール・ド・フランスには4つの招待チーム枠があります。ジャンルネ・ベルノドーのチームに関して言うならば、彼はパートナーやスポンサーを獲得するのにとても苦しみました。

ツールのセレクションはまだなされていませんが、彼は「すでに」一番の難関をクリアしたわけです。この意味はお分かりになりますか?我々の選択について、私は何も言うことができませんが、…(しばし時間をおいて)…いずれにせよジャンルネ・ベルノドーは穏やかに眠ることができるでしょうね。」

現在、ツール・ド・フランスにはたくさんの国の選手が走っています。その一方でツールはフランスを代表するイベントでもあります。国際化と、伝統。ツールにおいてこの2つが共存することは可能なのでしょうか?

2009年にはモナコをスタートしたツール・ド・フランス2009年にはモナコをスタートしたツール・ド・フランス photo:Makoto Ayano「もちろん、この2つは完全に共存可能です。そもそもツールが定期的に外国を走っているということはみなが知るところです。運営機材や、選手の回復のための休息という明白な理由により、あまりに遠い国というわけにはいきませんがね。

今夏はアムステルダムをスタートしたり、その前にはモナコ、2007年にはロンドンでの驚くべきグランデパールがありました。1987年のベルリンスタートも。ツールは1954年から外国でのグランデパールを取り入れており、近年ますますその頻度は高まっています。

ツールの国際化を語る時、そこには2つの国際化があります。ますは、その中であらゆる国の選手たちが走っているプロトンの国際化。30年前にはフランス人、イタリア人、スペイン人、ベルギー人、オランダ人、それに幾名かのスイス人選手がいるだけでした。ヨーロッパ派閥だったわけです。しかし今日では本当に世界中の選手が走っています。これが1つめの国際化。

もうひとつの国際化はというと、ツールがどんどん外国を走るようになっているということです。ツールが外国を走る時に感じるのは、至るところにいる観衆の、並外れた情熱や歓喜なのです。ツールを語る時、私がよく言うのは『3500kmの微笑み』という表現です。3週間に渡って沿道の人々が笑顔で出迎えてくれる、これはとても素晴らしいことでしょう。」

ということは、日本や、非ヨーロッパの国でのグランデパールの可能性も無くはないと?

「ロンドンの5年前には、誰もが『これは無理だ』と言っていました。ところがそれは実現し、そして素晴らしいものとなった。今、報道・運営機材がかなり複雑化しているのは確かですが、それでも決して不可能だと言ってはならない。不自然に外国でのグランデパールをしてはならないが、偉大なチャンピオンのいる国でグランデパールを迎えるのは、チャンピオンのいない国でのそれよりも、理にかなっている。

絶対に、決して、(不可能だと)口にしてはいけない。世界はものすごい速さで動いていて、その速さは年々増しているのですから。」

例えば、ジロ・デ・イタリアのオーガナイザーはアメリカ・ワシントンDCでのグランデパールを企画していますが、あなたはこれが可能だとお考えですか?

「すべてのことは、可能なのです。後は、今しがた私が言ったように、ただショーのためとして『不自然なカタチになってはならない』ということです。さっきと重複しますが、国際化はプロトンの選手と、レースが外国へ訪れることによってなされています。この2つが合わされば、それは美しいものになるでしょうね。

とにかく、不自然なものにしてはならない。選手のことを第一に考えるべきです。もしあまりに遠いところでレースをするとなると、選手の体調管理はより難しくなってしまう。また、人々を怒らせてもいけません。56年前にツールが初めて外国でのグランデパールを決めた時、人々は『何ということだ!』『これはツール・ド・フランスなんだぞ!』と言ったものです。新しいファンや観衆を惹き付けるには、時間をかけなくてはいけない。そして同時に、古くからのファンを失ってはいけない。

私たちは、これまでに張り巡らされた偉大な『根』の上に立っていることを知らなくてはならない。この根に敬意を払うべきだということも。過去の記憶なき組織は、未来なき組織です。もちろん発展してくための『良い』選択をするべきですが、それには新しい人達を迎え入れるために手を差し伸べることが不可欠です。

その種の発展では、私にとって『ペレニテとセレニテ』、すなわち『永続性と平穏』が大事なものとなります。ツールは107歳の、いわばおばあちゃんです(笑)。なので、このようなことをしようと思えば、静かにやさしく進めていく必要があるのです。

私がフランスにいた時、街の人に『あなたにとってツール・ド・フランスとは何ですか?』と聞いて回ったことがあります。私にとってツールは昔から最大の関心事でしたから、フランスの人々がどう思っているのかを知りたかったのです。しかし、私の受けた印象は、若者たちがそこまで夢中でないということです。日本の相撲を取り巻く状況にも似たものを感じました。ツールのオーガナイザーとして、若い人々をツールに惹き付けるには何が必要だと考えますか?

リヨンのベローブリヨンのベローブ photo:Yufta Omata「幸運なことに、我々はシクリスムにとっての正真正銘の挑戦を引き受けています。それは、マダムやムッシューたちのビシクレット(bicyclette、一般自転車)から競技用のヴェロ(vélo)をつなぐということです。ビシクレットは100年前の登場以来初めて、街の中にその立ち位置を獲得しています。例えば、リヨンのベローヴ、パリのベリーブのように(注:共に町中に設置されるレンタサイクル・システム)。

一方で、ヴェロと出会った人、あるいは幼少期からヴェロに親しんだ人がレースを楽しむというのは至極当然なことです。そこから我々の挑戦が立ち上がってきます。買い物や通学のよき友で、空気を汚すこともなく健康に良いビシクレットと自転車競技用のヴェロとに通路を作ること、それこそが今日の挑戦です。

ビシクレットの利用はますます広がりを見せることは間違いありません。世界各国で、環境汚染への対抗策として素晴らしい結果をもたらすでしょう。それだけに、競技用のヴェロと関係づけたいのです。フランスが昔からの自転車競技の地だというのは、ここが農村の国であり、農業の国であり、大地の国であるからです。

フランスではビシクレットに乗る環境が年々整っているフランスではビシクレットに乗る環境が年々整っている photo:Yufta Omataレイモン・プリドールやベルナール・イノー、学校へ通う生徒は必然と自転車に乗っていた。今日、東京のような大都市では確かに自転車に乗るのは危険かもしれない。しかし、自転車を取り巻く環境がどんどん整備されていることに目を向けてみましょう。

例えばリヨンでは300kmに及ぶ道路整備が既に行われ、計画では2020年には900kmにまで広がるということです。これから3倍ですよ!こうしたことはフランスの至る所で進展しています。ヴェロに乗る人であっても、ビシクレットがもたらす良さを再発見しているのです。人は初めて歩いた日を覚えてはいませんが、初めて自転車に乗れた日は覚えているでしょう?」


フランス人に限らず、フランスに長く住んでいる人ならきっと、ツール・ド・フランスを生で観る機会に恵まれると思うのですがどうでしょうか?

フランス人なら一度はツール・ド・フランスの通過にお目にかかる?フランス人なら一度はツール・ド・フランスの通過にお目にかかる? photo:Yufta Omata「我々は、5年ごとにフランスのすべての地域を回れるようにコースを設定しています。もちろん、アルプスやピレネーは毎年通過していますがこれは地理的な問題と、やはりこの2つがツールを特徴づける2つの山場だからです。

ノルマンディー。この自転車競技に熱狂的な地へは2006年以来行っていませんが、2011年には再びツールがやってきます。そこで情熱的にツールが迎え入れられることは確実です。これはもうシナリオに『書かれて』いることなのです。」

ということは、あなた自身子どもの時にツール・ド・フランスを生で観たことはあるのですね?

「子どもの時?ええ、あれは1970年、私が最初にツールが通過するのを観たのは。場所はジュネーブの近く、レマン湖のそばで、両親、兄妹と一緒でした。マイヨジョーヌのエディ・メルクスは見つけられなかったけど、私のスター、レイモン・プリドールは見ることができました。その時に限らず、ツールを見るために家族で旅行をしたものです。

エディ・メルクスとベルナール・テブネ。2人のチャンピオンがシャンゼリゼでアタックした時代があった(写真は山岳ステージ)エディ・メルクスとベルナール・テブネ。2人のチャンピオンがシャンゼリゼでアタックした時代があった(写真は山岳ステージ) photo:Cor Vosツールが初めてシャンゼリゼにゴールする年には、やはり私は母と姉とパリにいました。コンコルド広場からチュイルリーへ、プロトンが走っていく姿に釘付けでした。というのも、並外れたチャンピオンで負けることが嫌いなエディ・メルクスがアタックをしたから!最終日に、パリ・シャンゼリゼで彼が2人 だけで飛び出したのです。彼は前年にモントリオールの世界選手権に勝っていたからマイヨ・アルカンシェルを着て、そしてその逃げに乗ったもう1人はマイヨ・ジョーヌのベルナール・テブネ。

この2人だけで先頭を駆け抜けた。1975年、最初のパリは素晴らしいものでした。これは一方でフランスの大統領がシャンゼリゼでマイヨ・ジョーヌを勝者に着せた唯一の機会でしたね。その時はジスカールデスタン大統領でした。

その時代にはマイヨ・ジョーヌの選手がシャンゼリゼでアタックするということがあったのですね。しかし近年では自転車競技はとても厳密に、規則的なものになってしまったように感じます。このことについてはどうお考えでしょうか?

「規則の問題ではありません。これはメンタリティーの問題です。今日では、全ての選手が全てを失うか、あるいは全てを勝つかというリスクを負わなくなりました。まずこのことを念頭に置いた上で、選手それぞれが他の選手に対して輝けるようなコース設定をしているわけです。そのためにパヴェを設定したり、頂上ゴールの数を増やしたり、下り切ってすぐのゴールなどを取り入れています。

個人タイムトライアルも同じです。繰り返しになりますが、事をはかるは『オーガナイザー、事をなすは選手』です。そんなわけで、戦略を違うものにするために来年はマイヨ・ヴェールのポイント計算方法を変更します。

ゴールまで距離を残しているマドレーヌ峠で勝負をかけたアンディとコンタドールが結果として他のライバルに差をつけた2010年ツールゴールまで距離を残しているマドレーヌ峠で勝負をかけたアンディとコンタドールが結果として他のライバルに差をつけた2010年ツール photo:Makoto Ayano『3人の逃げが決まり、集団に対し15分差、ゴールまでは150km』『そしてゴール前6km、5km、4km、3km、2kmで抗う術も無く吸収』という展開はもう充分だと私自身感じているのです。我々は別の展開を夢見ています。選手たちがコース上で、ツール・ド・フランスの特殊なルールのもとに競う。それをするもしないも、後は選手にかかってきますが。

今年のマドレーヌ峠のステージは見事なものでした。マドレーヌ峠があり、下れば14kmの平坦。頂上からは30kmある。そこでどう動くかは選手次第、監督次第ですが、私としては勇気のある選手が勝つことが望ましい。そこで誰も何もアクションを起こさなければ、ただ1人を除いて全員が勝負を失うことになる、そんな展開が。」



まだまだ盛りだくさんのインタビューは後編に続きます!



interview & photo:Yufta Omata
photo:Makoto Ayano,Cor Vos

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