5月28日(月)に東京・青山の秀光ONE青山ショールームで、引退を間近に控えたダミアーノ・クネゴ(イタリア、NIPPOヴィーニファンティーニ・エウロパオヴィーニ)のトークショーが開催された。その模様を紹介する。



司会にファバロ・マルコさんを迎え開催されされたダミアーノ・クネゴ(イタリア、NIPPOヴィーニファンティーニ・エウロパオヴィーニ)のトークショー司会にファバロ・マルコさんを迎え開催されされたダミアーノ・クネゴ(イタリア、NIPPOヴィーニファンティーニ・エウロパオヴィーニ)のトークショー
伊藤雅和、中根英登、初山翔、ダミアーノ・クネゴ、マルコ・カノラ、シモーネ・ポンツィ、秀光の佐久間悠太取締役伊藤雅和、中根英登、初山翔、ダミアーノ・クネゴ、マルコ・カノラ、シモーネ・ポンツィ、秀光の佐久間悠太取締役 会場は狭く少人数制。プレミアムな雰囲気だった会場は狭く少人数制。プレミアムな雰囲気だった


ジュニア時代を含めて約20年近いクネゴのキャリアの振り返りがメインとなったトークショーの後には、前日に終えたばかりのツアー・オブ・ジャパンに参戦した選手を交えてのアフターパーティーも開催された。クネゴのトークショーが始まる前には、次のレースへの移動のため欠席となったメンバーを除く6名が集結。ツアー・オブ・ジャパンを終えたばかりにも関わらずファンのために顔を出してくれた。

トークショーのオープニングは約3分のムービー。ジュニア時代を含むクネゴの約20年にわたるキャリアを振り返った。その内容をお伝えしよう。



マルコさんからの質問に答えるクネゴマルコさんからの質問に答えるクネゴ
―自転車競技を選んだ理由は?

父親はランニングが大好きで、一家みんなスポーツが好きでした。学校でマウンテンバイクをやってた“輩”がいて、それを真似したくて自転車にはまったのが最初です。当時は1990年代で、やはりマルコ・パンターニの時代だったから、パンターニのレースを観て自転車をやりたいと思うようになりました。

14歳になってから初めて自転車競技をやろうかなと思うようになって、15歳で地元・ヴェローナの現在でも存在しているチームに入りました。15歳で自転車競技を始めたのは、イタリア人としては遅咲き。ですが、周囲でレースを見ていた人やチーム関係者に「やっていけるよ」と後押しされてここまで来ました。

NIPPOヴィーニファンティーニのジャージ。左右の側面に本日の会場「秀光ONE青山ショールーム」の名前が入っているNIPPOヴィーニファンティーニのジャージ。左右の側面に本日の会場「秀光ONE青山ショールーム」の名前が入っている イタリア国旗と共にランプレ時代のジャージもイタリア国旗と共にランプレ時代のジャージも

2010年度ランプレの集合写真。クネゴは中央で座っている選手の右隣2010年度ランプレの集合写真。クネゴは中央で座っている選手の右隣 今中大介さんもクネゴに会いに駆けつけた今中大介さんもクネゴに会いに駆けつけた


―数えきれないほどのレースに出場した中で、どれが印象に残っていますか?

総合優勝してプロとして完全に認められた2004年のジロ・デ・イタリアと、地元・ヴェローナ開催で思い入れがある1999年のジュニアロード世界選手権。親戚や友人が応援に来てくれていた中で勝てたのは格別でした。

―2004年のジロでのエピソードはありますか?

すでに2004年3月から調子がよかったので、総合優勝するために水面下で作戦を練っていました。調子がいいことが他のチームに漏れるとマークされてしまうから、ジロの前は調子が悪いという噂を広めたり。

チーム外の人に対してはもちろん、チームメイトで当時のキャプテンだったジルベルト・シモーニにも、自分の本当のコンディションを隠していました。彼は既にジロで2勝していて3勝目を狙っていたけど、青二才の自分に負けるとは思ってなかったから。シモーニがキャプテンで、自分はサブキャプテンとしてさりげなく入ることになったわけです。

「2004年のジロ・デ・イタリアは格別の思い出」「2004年のジロ・デ・イタリアは格別の思い出」 ジャパンカップの思い出を語るクネゴジャパンカップの思い出を語るクネゴ


シモーニは表彰台に乗れない可能性もあっていら立ちがあったので、ジロの最後は互いの顔を見れないくらい競争心がありました。でも、そのあとは仲直りしました。シモーニの子供のベビーカーをお下がりで譲り受けて自分の子供を育てたんです。今年のツアー・オブ・ジ・アルプスでシモーニと会ったときも普通に喋りましたし、もう不仲ではありません。

―一番勝ちたかったレースは?

2008年にイタリア・ヴァレーゼで行われて、2位だったロード世界選手権。優勝は同じイタリアのチームメイトのアレッサンドロ・バッラン。彼はスプリント勝負になると自分には勝てないとわかってたので、アタックを先にかけて逃げに乗って優勝しました。悔しかったけどしょうがない。人生においてもっと大事なことあるし、1回負けたくらいでいちいち執着することではありません。

「選手生活は、毎日大きなビルを建てる気持ち。優勝を目指すには一個ずつレンガを積んで、土台を造ってそこで初めて自分が成長できる」「選手生活は、毎日大きなビルを建てる気持ち。優勝を目指すには一個ずつレンガを積んで、土台を造ってそこで初めて自分が成長できる」
―誰から多くのことを学びましたか?

私をプロとして育ててくれたのが、サエコのジュゼッペ・マルティネッリ監督です。彼にはジュニア時代から目をかけてもらい、U23カテゴリーを飛ばしてすぐにプロになれると言われていました。でも周囲の選手同様にU23カテゴリーのチームに入って、ゆっくり成長したかった。監督にはそれを理解してもらい、2年間をU23チームで過ごしてからプロチームに入ることができました。

レースの展開はもちろん、人生における大事な価値観も教わりました。監督は選手としてだけでなく、人間として選手をいかに成長させてくれるかが大事だと思います。

―日本の印象はいかがですか?

アニメでしか日本を知らなかったけど、全然違いました。一番驚いたのは、東京が非常に大きな街だったこと。アリ地獄のように人が多いし、電車の時間がが正確なことにとても驚きました。

シーズン最後の10月の疲れている状態で、昔のジャパンカップには誰も行きたがらなかったです。それにレースのレベルも低く、最後の2周までは逃げ集団を容認して、そこから踏めれば勝てるレースでした。でも今はワールドツアーのチームも参加してくれるので、レースのレベルが上がっています。それに今のジャパンカップのレースは「すぐ動く」「逃げ集団が強い」「展開が読めない」と、昔とは真逆です。ヨーロッパのレースに匹敵するほどにレベルが上がって、素晴らしいレースになりました。

パーティー終盤にはサプライズゲストで、ジョルジョ・スタラーチェイタリア駐日大使が横浜から駆けつけたパーティー終盤にはサプライズゲストで、ジョルジョ・スタラーチェイタリア駐日大使が横浜から駆けつけた クネゴが昨シーズンに使ったデローザのバイククネゴが昨シーズンに使ったデローザのバイク

ツアー・オブ・ジャパンでの他チームからの厳しいマークを振り返って「マークされること自体が強い選手の証」とし、マークされても勝てるようになりたいと語ったカノラツアー・オブ・ジャパンでの他チームからの厳しいマークを振り返って「マークされること自体が強い選手の証」とし、マークされても勝てるようになりたいと語ったカノラ 「日本はファンもレースも素晴らしかったから来年また戻ってきたい」と話した、今回が初来日のポンツィ「日本はファンもレースも素晴らしかったから来年また戻ってきたい」と話した、今回が初来日のポンツィ


―今後出場予定のレースは?

ツール・ド・スイスに出場し、イタリア選手権で引退したいと思います。

―日本のチームにいる縁もありますが、2020年の東京五輪まで引退を待たなかったのはなぜでしょう

2020年まで現役でいたかったけど、選手として限界ですから。自分の嫌な姿を見せるくらいなら引退を選びます。

―引退後の予定は?

選手としては引退しても人生は終わっていません。現在は大学に通ってスポーツ科学を研究しています。長年の競技経験を活かして、若者に伝えたいです。NIPPOヴィーニファンティーニとの関係は引退後も続くので、このあとも縁があれば来日したいと思います。

アフターパーティーでは、生ハムやピンチョスがイタリア産ワインとともに振舞われたアフターパーティーでは、生ハムやピンチョスがイタリア産ワインとともに振舞われた ファンとの交流を楽しむカノラとポンツィファンとの交流を楽しむカノラとポンツィ


―日本で最後のレースとなったツアー・オブ・ジャパンを終えた率直な感想は?

チームとしては、とてもいいレースになったと思います。中根選手やカノラ選手は優勝こそできなかったけどいいポジションについたので、チームとしてはとてもよかったです。個人的には風邪を引いていたし鼻血もありましたし、力を発揮できなくて申し訳なかったです。ですから、今回はキャプテンではなくアシストとして挑みました。

―NIPPOに移籍した際は、チームから日本の若手の育成を期待されていたこともありますが、育成についてはこの3年間でどうでしたか?

この3年においては、まず自分も選手なので自分の結果を出すためにも頑張りました。今までは自分の結果だけの責任を全うするために選手として頑張りましたが、移籍後もそこまでは面倒を見ることはできませんでした。
逆に引退することでより細かく日本人の育成に携わるようになるし、これからのチームでの役割はスポンサーの顔になること。本格的に日本人の若手選手の面倒を見て成長させることが、これからの役割の一つになります。

パーティー終了時間後もファンサービスに応じるクネゴパーティー終了時間後もファンサービスに応じるクネゴ
―大学で学んでいるスポーツ科学の研究内容を、どのように若手育成にフィードバックするのでしょう?

まず20年携わった経験を科学的に大学で研究して、どれだけよりよく伝えることができるか。私個人的にも大きな挑戦だと思います。現役選手としては終わりますが、私のチャレンジはここからがスタートです。これから人間として成長し続けたいです。

text&photo:Akane.Ikeno