エイプリルフールに敢行された入社式サイクリングは、最初の鬼門”山王峠”を無事にクリアし、名栗渓谷側へと降りて行く。心を癒される景観とは裏腹に、”したたかな後輩たち”のお陰で、ちゃっかり貧乏くじを引かされた私の心中は穏やかではない。



此処から名栗渓谷に沿って秩父方面に続く県道は、クルマ通りも殆ど無く、広い道幅と綺麗な路面が続き、サイクリングにはもってこいの抜群の環境が拡がる。この先は、休日ですらクルマの数とサイクリストの数が同じ程度で、平日ともなるとほぼサイクリスト貸し切り状態となる素敵なサイクリングコースが続く。

すっかり春めいて来た花々に彩られた県道は、クルマ通りも少なく最高のサイクリングコースだ。すっかり春めいて来た花々に彩られた県道は、クルマ通りも少なく最高のサイクリングコースだ。
優しい日射しが降り注ぐ山河に心が和らぐ。優しい日射しが降り注ぐ山河に心が和らぐ。 名栗渓谷のせせらぎを楽しみながら車列は進む。名栗渓谷のせせらぎを楽しみながら車列は進む。


会社を出発してから既に1時間半が経過しているが走行距離はまだ30kmにも満たない。もっともメタボ会長と一緒に走る時はいつもこんな調子なのだが、このペースも慣れてしまえば決して苦痛では無い。むしろ個人的には、日常の喧騒から解き放たれ、流れる景色や新緑の香りを全身で味わい、心身ともにリフレッシュできるのはこのペースを於いて他にはないかも知れないと感じるほどだ。

名栗川のせせらぎを聞きながらのんびり進む車列前方では、会長と編集長が作戦会議を始めている。「会長と一緒に走るのも沖縄以来ですから、今日はちょっと距離を延ばして山伏峠の辺りまで行ってみましょうか?」優しく問いかける編集長に対し、オヤジがまた注文を付けている。「ルートは君達に任せるけど、できるだけ坂道は避けてくれよな。まぁ、いざとなったら10秒ルールを使っちゃうから問題ないけどな…。」

道端のあちらこちらに春の息吹が溢れています。道端のあちらこちらに春の息吹が溢れています。 名栗渓谷沿いの県道は信号も殆どありません。名栗渓谷沿いの県道は信号も殆どありません。

「お!魚見っけ!」老眼だから遠くだけは良く見えるようだ。「お!魚見っけ!」老眼だから遠くだけは良く見えるようだ。 清々しい清流に満開の桜が佇む。心洗われる情景です。清々しい清流に満開の桜が佇む。心洗われる情景です。


坂道を避けるも何も、ずっと一本道ですから!などと野暮なツッコミを入れるのを今日は止めておこう。ここから山伏峠入口までの約15kmの道程は私が最も好きな区間でもあり、たまに仕事に詰まった時などフラっと独りで走りながら命の洗濯をしに来るほどのお気に入り区間でもある。もし出来る事なら目を閉じて、山河の音色や匂いを感じながら走りたくなるほど素敵な区間なのだ。(もちろん目は開けて走っています)

各々が新緑の香りや名栗のせせらぎを満喫しながら、のんびりと車列は進む。普段のアベレージより5km/hほど遅いこのペースのお陰で、みるみる魂が洗われて行くのが実感できる。がしかし!やはりこのペースは暇を持て余して憚らない。そこでエイプリルフールの勢いを借りて、ずっと抱き続けてきた疑問を思い切って切り出してみた。

「会長、先日小耳に挟んだのですが、会長には編集部に対する決裁権が一切無いって話しは本当なんですか?」

「やっぱコレでしょ!」いつも磯部はコーラを手放さない。「やっぱコレでしょ!」いつも磯部はコーラを手放さない。 その意図は判りませんが、クジラがお出迎え。その意図は判りませんが、クジラがお出迎え。

長閑な田舎道が続きます。サイクリングはこうでなくっちゃ!長閑な田舎道が続きます。サイクリングはこうでなくっちゃ! 車列ではコーラのローテーションが始まっています。車列ではコーラのローテーションが始まっています。


今にして思えば、私も随分と大胆な行動をチョイスしたものである。そんな私からの想定外の奇襲攻撃に、多少面食らいつつも平静を装うメタボ会長ではあったが、何事にも動じないこの男が、一瞬だけ驚きの表情を浮かべた事を私は見逃さなかった。

「おいおい、随分と思いきった事を聞いてくるね?でもまぁ良い機会だから正確に答えてあげるよ。」己の動揺を隠すためか、いつもより丁寧な口調でオヤジは言葉を続ける。

「ウチの会社は事業部制、つまり独立採算が前提だから、メディア事業部の運営責任者から外れた以上、今の私には君達の方針に口を挟む権限も無ければ、君達に対する人事権すら無いのは確かだよ。だけど決裁権がまったく無いって訳でもないんだよね…。」すっかり落ち着きを取り戻し、ニヤリと笑みを浮かべたメタボ会長のその表情は、いつもの悪い大人の顔に戻っている。

新人の藤原もコーラローテーションに加わる。新人の藤原もコーラローテーションに加わる。 1929年(昭和4年)に建てられ築85年を迎えた旧名栗郵便局前を通過します。1929年(昭和4年)に建てられ築85年を迎えた旧名栗郵便局前を通過します。

「お~い!名栗湖でうどん食って行こ~ぜ~!」自由なメタボ会長と驚いて振り返る編集部員たち。「お~い!名栗湖でうどん食って行こ~ぜ~!」自由なメタボ会長と驚いて振り返る編集部員たち。
「残念な事に、ウチが出資している系列会社や事業部に対する予算割、つまり各々の会社や部署が使える資金の振分けは私の専権事項なんだよ。もちろん、全ての部署が順調なら何も問題は無いんだけど、中には芳しくない事業部も混じってて、優秀な事業部さんの利益余剰金を食い潰したりする訳さ!そんなダメダメな事業部に対する運転資金の供給を凍結したり、場合によっては存続自体を打ち切る事が、こんな私の一言で出来ちゃうんだよなぁ~!これで君の質問への答えになってるかな?」

ズゴ~ン!これはまずい!どうやら地雷を踏んだどころの騒ぎでは無いらしい。私の頭の中では、沖縄で思い知った”後悔先に立たず”という諺がこだましている。この状況では私の辞職願い提出も必至の様相である。それに付けてもオヤジも大人げない。これではパワハラを通り越してもはや脅迫である。こんな卑劣極まりない男が営むブラックな企業に、希望を抱いて入社してきた安岡と藤原のふたりが不憫でならない。

食いしん坊を先頭に無言で歩を進める私たち。食いしん坊を先頭に無言で歩を進める私たち。 咲き誇る花々が美しい龍泉寺の庭園を通過。咲き誇る花々が美しい龍泉寺の庭園を通過。

たまらず蛇行を繰り出すも、その表情に諦めの色は無い。たまらず蛇行を繰り出すも、その表情に諦めの色は無い。 この800mはけっこう厄介な登坂なのだが。この800mはけっこう厄介な登坂なのだが。


懲りもせず過ちを繰り返す自分自身が情けない限りで、学習しない自分がほとほと嫌になる。そんな自己嫌悪に暮れる私など意に介さず、先行する車列に向かって「お~い!名栗湖でうどん食って行こ~ぜ~!」そう呼び掛けるや否や勝手に左折をかますメタボ会長。いつもと変わらぬ身勝手な振る舞いにも、嫌な顔ひとつ見せずに慌てて引き返してくる編集部員たち。すっかり見慣れた日常が繰り返される。 

この交差点から有間ダム堤防までは、距離およそ800mで90mほどの標高差を駆け登る。堤防手前200mの勾配は15%に迫る勢いだ。そんな登坂に黙々と取り組むメタボ会長。あれだけ坂道を避けろって言っていたのに、うどんの為なら関係無しかよ!と突っ込む元気もいまの私には無い。龍泉寺の庭園に咲き誇る美しい花々が、自己嫌悪に咽ぶ私を慰めてくれるも、傷心の回復には至らない。

頂上手前の急坂を食いしん坊が気合いで乗り切る。目前にうどんがあれば決して弱音は吐きません。頂上手前の急坂を食いしん坊が気合いで乗り切る。目前にうどんがあれば決して弱音は吐きません。 ひとり冷静に撮影に勤しむ編集長。ひとり冷静に撮影に勤しむ編集長。

名栗湖に到着。すっかり春めいた美しいダム湖が私たちを優しく迎えてくれる。名栗湖に到着。すっかり春めいた美しいダム湖が私たちを優しく迎えてくれる。
距離こそ短いが厄介な部類に入る坂道に対し、弱音ひとつ吐かずに淡々と登坂をこなすメタボ会長。最軽34-32Tを装備しているとは云え、彼の登坂能力を考えるとリミットぎりぎりの筈なのだが、やはり彼の食べ物に掛ける情熱は人一倍の強さがある。アシストを受ける事無く、自力で最後の急坂を越えると、眼前に名栗湖が拡がる。

小さな達成感と共に、湖畔の景色を味わう私たち。平和な時間が流れる中、何かに気付いた様子の磯部が口を開く。
「会長、湖畔の食堂ってアレですよね?なんか今日は営業してる雰囲気がないんですけど…。」彼が指差す方向に皆が視線を送ると、そこにはまったく人気の無い食堂が一軒。途端にオヤジの表情が曇る。

「あらら?今日に限ってお休みかよ!せっかく此処の”天盛りうどん”楽しみに登ってきたのにまったく!でもまあ、仕方ねえから、この下の”さわらびの湯”まで戻って”きのこ漬け汁うどん”でも食おうか?」そう言い残すや否や、そそくさと来た道を戻るメタボ会長。「アナタの頭にはどんだけ食べ物情報が詰まってんだよ!」と突っ込む事も無く、私達も無言で続き”さわらびの湯”に流れ込む。

「あれって閉まってませんか?」磯部が指差す方向に視線が集まる。「あれって閉まってませんか?」磯部が指差す方向に視線が集まる。 「楽勝だったぜ!」有間ダムの標石の前で記念撮影です。「楽勝だったぜ!」有間ダムの標石の前で記念撮影です。

「なんで会長のキゲンが悪いんだ?」いぶかしげな表情の編集長がオヤジを指差す。「なんで会長のキゲンが悪いんだ?」いぶかしげな表情の編集長がオヤジを指差す。 楽しみにしていた”天盛りうどん”を諦め、”きのこ漬け汁うどん”を求めて、力無く降りて行く。楽しみにしていた”天盛りうどん”を諦め、”きのこ漬け汁うどん”を求めて、力無く降りて行く。


「よ~し、休憩だぁ!うどん食うぞ~!」メタボ会長の言葉を合図にバイクを降りる私たち。最後尾でひとり疲労困憊の色を隠せない藤原を見つけ「大丈夫かい?」と気遣って見せる私に、弱々しい笑顔で無邪気な若者が応える。「正直かなりキツイっす。あのメタボ会長がここまで普通に走れるとは意外でした。」本人に悪気はないのだろうがこの返答はいただけない。この無邪気なバカ者には教育係の私がしっかり言って聞かせる必要がありそうだ。

「なあ藤原君、会長が走れてる訳では無く、君がヘナチョコなんだって考えるべきだろうね。それと、君はもう社員なんだから、読者さん気分でメタボ会長と呼ぶのは控えた方が良いと思うよ…。僕達の前ではいつもあんな感じだけど、社内ではビックリするくらい偉い立場の人なんだからね!」
まるで不甲斐ない己への戒めを込めるかの様に、自分達下っ端の立場をこんこんと新人に諭す私だった。

次回は取り敢えず、”きのこ漬け汁うどん”とやらをご馳走して貰いましょう。



メタボ会長連載のバックナンバー こちら です

メタボ会長
身長 : 172cm 体重 : 82kg 自転車歴 : 4年

当サイト運営法人の代表取締役。平成元年に現法人を設立し平成17年に社長を引退。平成20年よりメディア事業部にて当サイトの運営責任者兼務となったことをキッカケに自転車に乗り始める。ゴルフと暴飲暴食をこよなく愛し、タバコは人生の栄養剤と豪語する根っからの愛煙家。