ツール・ド・フランスのプレスセンターに、いつも決まってアロハシャツを着たジャーナリストが一人いる。シドニー・モーニング・ヘラルド紙の記者、ルパート・ギネスだ。ベテランの彼の目から見たツールの変遷に迫ってみよう。

シドニー・モーニング・ヘラルド紙のルパート・ギネス記者シドニー・モーニング・ヘラルド紙のルパート・ギネス記者 photo:Gregor Brownギネス氏が初めて取材に訪れたのは、アイルランドのステファン・ロッシュが優勝した1987年大会。それ以降、1996年と2007年の2大会を除いて、毎年7月になるとギネス氏はフランス行きの飛行機に乗り込んでいる。様々な視点から鋭い洞察力で記事を書き続けるオージーは、今年22回目のツール出場を果たした。

今年のツール・ド・フランス最終日、経験豊かな彼に様々な質問をぶつけてみた。

以下、GB:グレゴー・ブラウン、RG:ルパート・ギネス

1987年ツールで総合優勝したステファン・ロッシュ(アイルランド)1987年ツールで総合優勝したステファン・ロッシュ(アイルランド) photo:Cor VosGB:1987年に初めて取材に訪れたツール・ド・フランスのことを覚えている?
RG:狂気の沙汰だと思った。当時とだいぶ変わったとは言え、今でも観客やレース規模は他のレースと比べ物にならないだろう?それまでサッカーやテニスの取材に出かけていたけど、初めてツールを見たときは良い意味でショックを受けた。1カ所に留まらず、大会全体が3500kmも移動するスポーツなんて他に類を見ない。正直言うとどう取材すれば良いか分からず、お手上げだった。

初めてのツールで担当したのは、ステファン・ロッシュのレース日記。ロッシュは5月のジロ・デ・イタリアで総合優勝していて注目の選手だった。にも関わらず、日記の話がトントン拍子で進んで、彼と握手して決まったんだ。マネージャーが間に入ってくることなんて無かった。

当時はまだチームバスなんて無くて、毎ステージ終了後に彼を見つけては舗道の縁石に座り込んで話を聞いた。今となっては良い思い出だよ。

GB:それ以降、ツール・ド・フランスはどう変わった?
RG:初めて取材した当時と比べると、マーケティングやコマーシャルに重きを置いたビッグイベントに成長した。いつでも世界最大のレースには変わりないけど、人と人とのふれあいが希薄になっている。

当時は観客や選手がもっとオープンな関係だったように思う。選手と打ち解けて無駄話をするチャンスも多かった。でも今は選手たちがジャーナリストたちと夕食を共にするなんてことは稀だ。ツール・ド・フランスが世界的なイベントに成長した代償なのかもしれない。でもそのおかげで自分は飯を食えている。ここまでツールが発展していなかったら、22回も取材していなかったかもしれない。

ローラン・フィニョン(フランス)とグレッグ・レモン(アメリカ)の一騎打ちローラン・フィニョン(フランス)とグレッグ・レモン(アメリカ)の一騎打ち photo:Cor VosGB:ロードレースとしてはどう変わった?
RB:1987年のツール・ド・フランスは全25ステージで休息日が1回だけ。水曜日に開幕して、週末を3回挟んだ。今は日曜日に開幕して休息日が2回。半日で行なわれるセミステージはもう無い。

レース的には2人の一騎打ちになることが多かった。ステファン・ロッシュvsペドロ・デルガド、ローラン・フィニョンvsグレッグ・レモンのように。でもミゲール・インドゥラインが台頭してからは、チームがレースをコントロールするようになった。ランス・アームストロングもインドゥラインと同じようにチーム力で他を圧倒。劇的な展開を産むようなアタックは見られなくなった。今年はアンディ・シュレクとアルベルト・コンタドールが一騎打ちを繰り広げたので、観客は久々にドキドキしながらツールを見ていたと思う。

GB:これまでの取材で最も記憶に残っている瞬間は?
RG:最も鮮烈に覚えているのは、1995年のツールでファビオ・カザルテッリが亡くなったこと。当時カザルテッリが所属していたモトローラチームに密着していたんだ。彼らと同じホテルに泊まり、ツール開幕前のイージートレーニングにつき合ったりもしていた。

彼が亡くなる日の朝、スタート地点に向かって歩いているときのことを覚えている。誰かが後ろからやってきて、肩にぶつかってそそくさと通り過ぎて行った。それがカザルテッリだった。「まだこのオリンピックチャンピオンについて知らないことが多そうだ。これから掘り下げていこう」。そう思った3〜4時間後、彼は亡くなった。全く進まない筆を動かして、彼の死亡記事を書いた。衝撃的な出来事だった。

GB:最も厳しい闘いが繰り広げられたと思うステージは?
RG:1992年にクラウディオ・キャプッチが勝利したセストリエールのステージ。コースの中盤でレースの通過を待っていたら彼が単独でやってきた。すぐにクルマを走らせて彼の後ろに付いたんだ。彼がどんなギアを踏んでいるのかを事細かに知ることが出来たし、何よりペースが速かった。いくつもの峠を越えているうちに、彼の偉大さを実感したよ。インドゥラインが初めて苦しい表情を見せたステージだった。

1993年のロード世界選手権で優勝したランス・アームストロング(アメリカ)1993年のロード世界選手権で優勝したランス・アームストロング(アメリカ) photo:Cor VosGB:ランス・アームストロングの存在は?
RG:アームストロングに初めて会ったのは1992年。彼がモトローラと契約した時に、フォトグラファーのグラハム・ワトソンが紹介してくれた。第一印象は、自信に満ちたテキサスマンと言った感じ。自分が決めたことをとことん貫き通すような若者だった。その翌年に彼はオスロのロード世界選手権で優勝。ジャーナリストの中で彼に賭けていたのは自分だけだったので、おかげでビール5箱をゲットした。

GB:彼が2010年もツールに出場した理由は?
RG:2009年のツール・ド・フランス総合3位という結果がまぐれではないことを証明したかったのだろう。リブストロング活動を普及させるためだけに現役に復帰したという声もあったから、走りで応えたかったのだと思う。それに、彼には今年のツールで総合優勝する自信があった。

GB:アームストロングの将来は?
RG:まず彼にはアメリカで巻き起こっているドーピング捜査を片付ける必要がある。まだ38歳と若いので、政治の世界に脚を踏み入れても不思議ではない。数年後には知事や議員になり、アメリカの金融危機を打開するために奔走しているかも知れない。

GB:3勝目を飾ったコンタドールは、どこまで勝利数を伸ばせると思う?
RG:5勝は出来ると思う。でも7勝や8勝は無理だ。

GB:今年のツールで最も心に残ったストーリーは?
RG:レース前半、第10ステージまでのサスペンスが好きだった。想像もしないような結果を生み出すツールの魔力は凄い。オランダの横風やアルデンヌの濡れた路面、北フランスの石畳など、予想のつかない展開が多かった。ツールの真髄はレースであって、ドーピングではない。数々の人間ドラマがレースの中にはある。それを見つけ出して書き上げるのが好きなんだ。

オーストラリアの雑誌の編集者は、エヴァンスの不調を知るや否や、彼の特集ページを削減しようと提案してきた。異論は無かったよ。今オーストラリアはターニングポイントを迎えているのだと思う。カデル・エヴァンスやマイケル・ロジャースのような地元出身選手一人一人にフォーカスするのではなく、レース全体の面白さや奥深さを続者に伝えるべきだ。

1999年ツールの最終ステージを制したロビー・マキュアン(オーストラリア)1999年ツールの最終ステージを制したロビー・マキュアン(オーストラリア) photo:Cor VosGB:近年急速に力を伸ばしているオーストラリアの歩みは?
RG:1981年にオーストラリアのフィル・アンダーソンがヨーロッパ以外の国の出身者として初めてマイヨジョーヌを着た時、自分はまだツールを取材していなかった。でも彼の存在が自分をヨーロッパに引き寄せたのは事実だ。彼が1991年大会でステージ優勝を飾った時、まだオージー(オーストラリア人)と言えばアラン・ペイパーやステフェン・ホッジら、数えるほどしかいなかった。当時はオージーが逃げに乗ったりステージ5位に入るだけで大事件だったんだ。今ではニュースにもならないけどね。

ロビー・マキュアンが1999年大会の最終日パリで飾ったステージ初優勝は自分にとって大きな転機だった。オージーの活躍のおかげで自分の仕事が成り立っている。ロビーとはその晩に一緒にシャンパンで乾杯したよ。

GB:ロードレース以外にカバーしているスポーツは?
RG:普段はロードレースよりもラグビーの取材に多くの時間を割いている。何故ならロードレースはまだオーストラリアのメジャースポーツではないから。アームストロングが引退した2005年に少し熱が冷めたけど、今は再びロードレースに没頭している。今年はオージーのステージ優勝はゼロ。でも今までで最高に面白いツール・ド・フランスだったと思う。

text:Gregor Brown
translation:Kei Tsuji