京都産業大学時代、学生クリテリウム王者にまで上り詰め、チームユーラシアを経て2015年から那須ブラーゼンに所属している吉岡直哉。決して天才ではないと言う彼に、競技歴9年目の原点回帰として、これまでの自転車人生を振り返ってもらった。

2015年から那須ブラーゼンに所属、ツール・ド・おきなわ2015 チャンピオン210kmでは山岳賞を獲得した吉岡直哉2015年から那須ブラーゼンに所属、ツール・ド・おきなわ2015 チャンピオン210kmでは山岳賞を獲得した吉岡直哉 photo:Hideaki TAKAGI

始まり

今年で競技歴は9年目を迎えた。長く続けていると、昔の大事な事を忘れそうになる時がある。原点回帰、時にはやはり必要だ。

自分は、小さい頃ツールドフランスを見て、自転車カッコイイ!とか、ジャパンカップをみて凄い!と、思って自転車を始めた訳でない。

小さい頃は、オヤジとサイクリングなんかに行くことはあったけど、自転車競技は全く知らなかったし、レースがある事も知らなかった。自分は只々、車やバイクが好きな中学生だった。自分は本当に乗り物が好きで、常識的な話だが、絶対に免許を取ってから乗ると心に決めていた。

車やバイク乗るまでに何か乗り物乗りたいな。と言う事で、少しでも走る感覚を身につけておこうと、家にあったオヤジのダウンヒル用の自転車を朝から乗り回す遊びを始めた。

中学生だったし、ただ乗り回すだけでは面白くもなく。サイクリングロードで流すときもあったが、1番の遊びは、山頂まで登りに行って、おもいきり下ったりする事だった。

ほとんど走る場所は未舗装だったので、これがなかなかテクニックを必要とする。気を抜けば転ぶ。またゆっくり走りすぎても刺激がなくつまらない。何故かこれがとても楽しく、缶コーヒーを飲んで家に帰ってギリギリに学校に着く生活をしばしばおくっていた。

ある日、叔父さんから、ロードレーサーと言う自転車を貰えると言う話が舞い込んできた。が、しかし、まずロードレーサーっていうモノがわからなかった。サイクリングロードをダウンヒルバイクで走っている時、よく出会うピチピチしたカッコの人が乗ってるあれか!何回かバイクのレースみたいにフロントフォーク握りしめて空気抵抗減らしまくってブッチぎってやった事あったけど速いんか?

話を聞いてはじめて知るロードレーサーと言う自転車。でも。はやく乗りてえ。中学卒業後の春休みだった。

オヤジがロードレーサーを家に持って帰ってきた。早速乗ってみる。おお。全然違うな。タイヤ細!なんやこの変なハンドル!?そして速や!!ロードレーサーとの出会いはこんな感じ。

初レース

夏に鈴鹿サーキットで自転車のレースがある事を知る。それも、逆走だけどコースを走れるみたいだ。モータースポーツ好きな僕は出場することをすぐに決めた。

レースに出る以上、練習しないといけない。自転車をはじめてすぐに3本ローラーを購入してもらい、ローラーで練習する事になった。今思えば、続けるかもわからなかったのによく買ったな、ローラー(笑)。15の少年が遠くに1人で練習に行くのは危険だとオヤジもオカンも思い、買ってくれたはずやし、それを自分もわかっていたから、そこから毎日朝晩のローラー練習がはじまった。

毎日朝晩ローラー練習に励んだ毎日朝晩ローラー練習に励んだ (c)Naoya Yoshiokaレース本番は夏休みに入った頃レース本番は夏休みに入った頃 (c)Naoya Yoshioka

本番は夏休みに入った頃だった。初めてのレース。走り方なんて知らないわ、自転車のロードレースなんて知らないわで、今から考えればよく出たなと思う。スタートして全開アタック。案の定、タレて集団に飲み込まれ、人と走ったことも無かったので、前輪をハスらせてしまい転倒。前歯もかけて擦過傷だらけ、血だらけで帰ってきた。本当なら免許も取れる歳。別に自転車をこれ以上続ける必要もないはずだった。

全てはこの敗北から。全てはここから始まった。転けた悔しさではなく、負けた悔しさだ。本当に悔しかった。自分が何かで負けるなんて考えていなかった15歳の僕の闘争心に、ここで火がついてしまった。

自転車で勝ちたい。心からそう思った。

トラックレース

それから自分の自転車中心の生活がはじまった。それから勝つまでは時間がかかったけれど。高体連に登録するところから高校2年は始まったが、何やかんやとありまして、これを書きだすと凄く長くなってしまうので、それはまた別の機会に。

飛んで高校3年生の春。そのころの自分は、ロードレースを主戦場とはしなかった。トラック、それも短距離の選手として走っていたのだ。 自転車競技ってものをわかりだし、トラック競技をはじめていた。と言ってもはじめて数ヶ月。レースも数えるほど。だが4月の時点で明確な目標は出来ていた。

6月にある近畿大会、スプリントで優勝すること。そしてインターハイ出場権を獲得することだった。オヤジに頼みこみ、オヤジも応援してくれてカーボン製のトラックフレーム、車輪を用意してくれた。

初めての高体連のレース後。後ろには未来の監督、秋田さんが初めての高体連のレース後。後ろには未来の監督、秋田さんが (c)Naoya Yoshioka地元の小さなロードレースでは表彰台に登れるようになっていた地元の小さなロードレースでは表彰台に登れるようになっていた (c)Naoya Yoshioka

絶対に勝ちたい。僕は全てを捨て練習に打ち込んだ。遊びもせず、夜更かしもせず。そうしないと、周りに追いつけない事もわかっていた。自分は天才ではない事も知っていた。

だから努力した。本気だった。ここまで本気に打ち込めるものに出会え、心の底から喜びを感じていた。

学校にはクラブがなかったので、臨時で作られた自転車部での活動。先輩もいなければ後輩もいなかった。けど、オヤジとオカンをはじめ、学校の先生や友達も応援してくれ、寂しくはなかった。ただ、練習メニューなどは自分で考えないといけない。本などから情報を得て、日々考えながらの生活が続いた。辛くはなかったし楽しい毎日だった。肉体は辛かったが。

はじめての1kmTT。発射台は徳田鍛造選手!はじめての1kmTT。発射台は徳田鍛造選手! (c)Naoya Yoshioka怪我をしても、夜でも、練習はサボらなかった怪我をしても、夜でも、練習はサボらなかった (c)Naoya Yoshioka

結局その近畿大会、僕は優勝することができた。ちょうどその日は父の日。最高の恩返しが出来た気がした。いつもレースに付いて来てくれた。応援してくれた。オヤジ、ありがとう。

おかげでインターハイも出場する事が出来た。しかし、当時の自分は、インターハイ優勝する実力も無かったし、無理だろうと言う気持ちもあって、モチベーションも切れてしまっていた。結果は予選敗退。僕のインターハイは開幕15分で終わりを迎えた。近畿大会での「やっと自転車で勝てた」と言う喜びが大きすぎたのかもしれない。

京都産業大学

修善寺の学生レースにて。これが大きな大会では初めての優勝修善寺の学生レースにて。これが大きな大会では初めての優勝 (c)Naoya Yoshiokaそしてインターハイが終わった夏休み。子供の頃から好きなテレビゲームに、また夢中になっていた。大好きなシリーズのゲームだったが、自転車に集中するため、発売してすぐには買わず、発売日から半年近く経ってから購入してプレイしていた。自転車にもあまり乗っていなかった。

大学に進学する事は決めていた。できれば京都の大学がいいと思っていたが、探していると、京都産業大学に同年、学生チャンピオンになった先輩がいる事を知った。愛三工業レーシングチームで走られていた、木守さんだ。

インターハイの時に京都産業大学、現在も監督の秋田さんと少しお話をさせて貰い、スポーツ推薦で大学に行けるかも知れないよ、と言う話を聞いた。自分もそれで大学へ行けるなら、と考えるようになった。京都産業大学が勉強でも第一志望だ。インターハイの時には明確な目標はなく、大学に行ければ行きたい、という程度だった。自転車競技はやりたいけど、目標は見失いかけていた。

夏休み、何故かふっとした瞬間に、また自転車に乗りたくなり、それもめちゃくちゃ乗りたくて仕方がなくなった。自転車に乗るとやはり楽しかった。そして悔しさが湧き上がってきた。インターハイ直後はあまり感じなかった悔しさ。俺、負けたんやん。悔しくて悔しくて仕方がなくなった。

勝ちたい。それも全国の舞台で。自分は学生チャンピオンになる目標を立て、そして、また厳しいトレーニングの日々に戻って行くことにした。京都産業大学へは、無事スポーツ推薦で合格し、3回生の時ついに学生チャンピオンとなった。

2days race in 木祖村2011で個人総合優勝を飾る2days race in 木祖村2011で個人総合優勝を飾る photo:Hideaki.TAKAGI全日本学生選手権クリテリウム2012を走る吉岡全日本学生選手権クリテリウム2012を走る吉岡 photo:Hideaki.TAKAGI

全日本学生選手権クリテリウム2012を制し、目標の学生チャンピオンとなった全日本学生選手権クリテリウム2012を制し、目標の学生チャンピオンとなった photo:Hideaki.TAKAGI

そして今

負けたくない悔しさ。負けたからこそ今がある。負ける事もある、時にはまた負ける事もある。
自転車で勝つのは本当に難しい。負ける事が多い。

だけど、だからこそ、勝利した時はとてつもなく嬉しい。好きだからこそ勝ちたいと思うし、楽しいからこそ走れる。

今はプロ選手として活動させて頂いている立場であり、サポートして頂ける事は本当に嬉しくありがたいです。那須ブラーゼンに加入させて頂き、プロになって変わったのは、自分の勝利だけではなく、チームとして勝ちたいと思うようになった事です。チームみんなで勝って、チームメイト、サポートしていただいている方々、サポーターの方々、みんなで喜ぶのが今の自分の目標です。

貪欲に勝ちを狙っていきます!

那須ブラーゼンで走る吉岡直哉。2016年はエースとしての責務も担う那須ブラーゼンで走る吉岡直哉。2016年はエースとしての責務も担う photo:Hideaki TAKAGI
プロフィール
(C)YUKIO MAEDA/M-WAVE
吉岡 直哉 よしおか なおや
1991年12月23日生
京都府京都市 出身
生まれも育ちも京都府京都市。小中高大、共に京都の学校を卒業。高校2年生の時、高体連に競技者登録をし、本格的に自転車競技を始める。ちなみにそれ以前のスポーツ歴は、剣道、ボクシング、マラソンと、全く違う競技ばかり。また23歳まで京都を出て生活した経験はなかったが、大学卒業後(卒業式を待たずに)、ベルギーへ。橋川監督率いるチームユーラシアに所属。翌年、大学の大先輩にあたる清水良行監督から「チームに来ないか」との誘いを受け、那須ブラーゼンへ移籍。エリート2年目にプロデビューを果たした。

■主な経歴
2012年 全日本学生選手権クリテリウム 優勝
2012、2013年 修善寺カップオープンロードレース 2連覇
2013年 ジャパンカップ U23ナショナルチームにて出場 34位
2015年 ツールドおきなわ 山岳賞獲得
2016年 JBCF 群馬CSCロードレース Day 2 2位

Panaracer「RACE TEAM Edition 1 TUBULAR」

パナレーサー RACE TEAM Edition 1 TUBULARパナレーサー RACE TEAM Edition 1 TUBULAR (c)パナレーサー
標準モデルRACE EVO3 シリーズとは一線を画すフラッグシップモデル(限定販売)。基本となる部材はRACE EVO3シリーズと共通だが、構造を見直しそれぞれの部材を最適化する事で、性能面での向上を図り、チーム(選手)のオーダーに応えている。

開発者からのコメント

「走り出してすぐに気付くのはタイヤの硬さです。一般的にチューブラータイヤに求められるようなしなやかさはなく、ダイレクトに路面からインフォメーションが伝わるソリッドなフィーリングであり、選手の好みが分かれる要素となります。

狙いはレスポンスの向上とエネルギーロスの低減ですが、おかげで装着がとても困難なタイヤになっています。次にグリップ力の更なる向上。コンパウンドの改良ではなく、もともとハイグリップなコンパウンドがしっかりと機能するようタイヤ全体の構造を見直しています。

そして軽量化。軽さを求めたというよりも、狙いの性能を達成するため贅肉を削ぎ落した事による副産物とも言えます。結果、耐久性は標準モデルに対し低下していますが、1シーズン走りきるだけの耐久性は確保しています。最後に検査基準。通常のライン検査に加え、サポートチームに供給する場合と同様に2次検査を実施します。」

Panaracer「RACE TEAM Edition 1 TUBULAR」スペック

形式チューブラー
トレッドマイクロファイルパターン
コンパウンドZSGデュアル
耐パンクベルトProTite belt
インナーチューブR’AIR(2ピース仏式/バルブ長52mm)
サイズ / 重量700Cx23mm / 260g(平均)
カラーブラック
限定数150セット
価格26,500円(前後セット販売、税抜)
提供:パナレーサー株式会社 編集:シクロワイアード