パリ郊外からブルターニュ地方ブレストまで往復1200kmを走るブルベ「パリ〜ブレスト〜パリ」。三船雅彦さんにとっては4度目の挑戦だ。あくまでレースとして捉え、順位とタイムにこだわり1200kmを57時間25分22秒で駆け抜けた三船さん自身による直筆レポートをお届けする。



出走前の三船雅彦さん。スタートのランブイエにて photo:Kaori Asada

今年のツール・ド・フランスは熱かった。こんな熱いイベントが1901年から続いている。しかしそんなツール・ド・フランスよりもさらに古い歴史をもつイベントが存在する。それこそがParis-Brest-Paris=パリ・ブレスト・パリ(以下PBP)だ。

パリから西の果てブレストまで走り、そして折り返して再びパリを目指すトータル1200km。PBPの歴史は第1回ツール・ド・フランスより遡ること10年、1891年にレースとして開催された。当時の優勝タイムで70時間以上、そしてプロのレースとして最後の開催となった1951年は、ディオとミューラーの二人がゴールスプリントにもつれ込み、ディオが先着。38時間55分というタイムで走り切っている。しかしあまりにも無謀な「ワンデーレース」ゆえにレース界から姿を消してしまったという歴史がある。

Paris-Brest-Paris2023 コースマップ ©Paris-Brest-Paris

1956年からPBPはブルべスタイルでの開催となり(当時は5年に一度開催)、今年はブルべとなってからの記念すべき第20回大会となった。

しかし今でも80時間カテゴリーの参加者の多くは以前のレースのようなスタイルで挑んでいる。そもそも90時間制限時間のブルべに80時間カテゴリーとして存在していることが不自然で、これは主催者もPBPはレーススタイルが基本で、これを継承していくことに異論はないという表れだろう。そして参加者もそれを理解して、フランスのみならず世界中からチャレンジしているのだと理解している。何よりもペナルティがタイムペナルティというのも完全にレースのスタイル。時間や速さを競わないブルべであれば、ペナルティは「罰金」であることが正当であるはずだ。。

そんなファストランとしてのPBPに完全に魅せられ、私にとっては4回連続・4回目のチャレンジとなる。

初出場の2011年はノンサポートで挑み、ハンガーノックで力尽きた。2015年はサポート体制で挑み、8番目のタイム、競技場へは2番目に戻ってきた。明らかにフランス人を待ち構えていた人たちを落胆させ、そのフランス人たちを見た時、先頭で戻ってきたドイツのレンハルトを見た時のフランス人はどんな顔だったのだろう?と、いつか自分も一番で戻ってきたいと強く思った。

2019年は3人に先行を許して折り返しで40分差。しかし復路で単独になっても攻め続けてルディアックではトップと10分以下の差に詰めた。しかしサポートチームと合流することができず、補給に失敗してハンガーノックで後退してしまった。

今回も自分としてはやはり先頭狙いにこだわっての出走だ。そのため事前にベルギーに入って時差ぼけ対策で走り込みを行った。選手時代にベルギーに住んでいたので土地勘もあるし、何よりもフランスと違って言葉の問題がないのでストレスなく過ごすことができた。

プロ選手時代に住んだベルギーのコルトレイクで調整する photo:Kaori Asada
マツダベルギーにマツダCX60のサポートを受けた photo:Kaori Asada



そしてベルギーでコンディショニングしようと思った理由がふたつ。今回のサポートチームはベルギー人の友達に頼んだので、ベルギーを経由したほうが都合が良かったこと。そしていつもお世話になっているマツダさんのご厚意でマツダベルギー経由でCX60をお借りすることができた。足が確保されたことで、無理にフランスに直接入る理由がなくなったのだ。スタート地点のランブイエでの宿確保は難しく、何よりもパリ近郊は物価が高い。

かつて走り慣れたベルギーの石畳の道で調整した photo:Kaori Asada

今回のサポートチームは、ドライバーに元チームメートのリノ、そして彼の友人ザビエ、日本からサポータークラブメンバーの浅田かおりさんの3名。浅田さんは英語が堪能でフランス語も少しできるので、チェックポイント通過時に追い込まれた局面で私が日本語で話していても、ベルギー人たちにちゃんと英語で伝えることが出来る。実際彼女が居たことで非常に助かった。

ベルギーの友人ザビエと。再会を祝してトラピストビールで乾杯 photo:Kaori Asada
マッサージをしてくれたトニステイナー時代のチームメートのリノ photo:Kaori Asada



リノは97年98年とトニステイナー時代のチームメートだが、身体は大きいが非常に優しいヤツで、運転も常に安全第一。逆に言うとチームの監督には向いていない(笑)。普段はマッサージャーとして自転車選手やサッカー選手のマッサージを行う。もう25年も経過しているのに友達として繋がり、そしてこうして協力してくれたことに感謝。いい友達だ。

サポーターの2人と三船雅彦さん、そしてサポートカーのマツダCX60 photo:Kaori Asada

スタート前日にベルギーを出発。昼過ぎには会場に到着して受付を済ませ、滞在ホテルはスタートから50kmほど離れたシャルトレに。ここまで離れると部屋の確保はそれほど難しくなかった。

スタート地点に集まった参加者たちのバイクも様々なスタイル photo:Kaori Asada

今年の大会ではとうとうDHバーが解禁された。前回もショートタイプのDHバーは解禁され、実際11年15年とは戦略面で大きく変わった。

バイクに取り付けたボトルやバッグの装備類 photo:Kaori Asada
ブライトンのサイコンにキャットアイVOLT800を2灯装備する photo:Kaori Asada



集団を仕切るフランス人がいて、ペースを作りながらチェックポイントごとに目減りしていく。日本のブルべでもそうだが、速く走るのに重要なのはグロスでのスピードの低下防止。要は停まっているロスタイム的な時間を削ること。コンビニで座り込んでスマホを見ている時間などを無くし、買うものを事前に決めて素早く買って、持って走れるものはポケットに入れるなどして停止時間を削っていく。

スタート地点に取材に来てくれた小俣雄風太さんと photo:Kaori Asada
Aグループのウェーブでスタートに向かう photo:Kaori Asada


決して速すぎないスピードだが、チェックポイントでは折り返すまでは誰も停まらない。ブルべカードへのスタンプ捺印も小走りで、スタッフが並走してポケットのごみを全部回収して新しく補給食をポケットに入れている選手も。このパターンはだいたい「お母ちゃんスタッフ」に多い。捺印中にボトルは入れ替え、バイクに乗る前にスペシャルなものがあればコンテナかごなんかに入れておいてササッとポケットに突っ込んだり口に入れたりしてそのままバイクにまたがる。ここでもたついたりすると、集団復帰できずに終わってしまうというパターンだった。

酷暑の中スタートを待つ三船雅彦さん photo:Yufta Omata

前回はショートタイプのDHバー出現で、集団でなくても意外と走れるので、チェックポイントのあとのセットアップ時間がかなり削られていた。今回も要注意だ。

このDHバー解禁で気になったのは、アメリカやイギリスからの参加者はほぼ全員DHバーを装着していること。逆にDHバー無しは、自分となぜかフランス人たち。前回口論になったフランス人、明らかに先頭狙いだった彼は今回も参加していて、DHバー無しだった。

DHバー装備の選手を追走する三船雅彦さん photo:Yufta Omata

思うに、PBPは100年前のロードレースの始祖ともいえる大会。この大会で先頭で戻ってくるというのは当時からの歴史を繋いでいるということなのだろう。フランス人はその昔から続く歴史を繋ぐことが名誉で、そこにはロードレースのスタイル、DHバー無しにこだわりがあるのかもしれない。その点アメリカやイギリスのランドヌールたちはそんなこだわりはなさそうで、むしろ記録が出せるならバイクは何でもOKという風に見受けられた。

8月20日16時。A組がスタート。日本と比べて涼しいわけでもない今年のフランス。スタートを待っている間に脱水になるほど暑く、もしスタートが朝や日中だったら間違いなくインナーウェア無しでスタートしたはずだ。

序盤を快走する三船雅彦さん photo:Yufta Omata

スタートから思ったよりはるかに遅いスピードで、時速30キロぐらい。もしかしたら郊外に出るまではペースカーが入っているのか? 集団も200人ほど居るので危ない。しかし1時間ほど走ったところからペースは上がり始める。DHバーを装着した連中が先頭に出ればペースは落ちにくい。

三船雅彦さんのゼッケンプレート photo:Kaori Asada
サポートカーにも誰のサポートかを明示して走る photo:Kaori Asada



100km過ぎに毎回集団が粉砕する登りがあるが、今年も警戒して余力を残しつつ、危険ではない位置を探し出して登り始めた。

前回やり合ったフランス人の後ろで登る。彼は今回同じジャージの若いアシスト2人を帯同させているようで、飲み切ったボトルを彼らと交換するなど完全にツール・ド・フランスのエースのような待遇。フランスではPBPの先頭狙いは英雄なのだろう。前回のコーケンがチェックポイントに来た時、フランス人たちが熱狂していたという話を聞いても理解できる。

しかしその登りで先頭がDHバーでペースを上げたためか、彼はまさか重要ポジションから脱落。私は危険を察して少し前に上がっていて事なきを得たが、結局120km地点の通過チェックポイントであるモルターニュ・オ・ペルシュを通過した際、彼らの姿を見ることはなかった。

まだ序盤だというのに疲労の浮かぶ表情で補給を摂る三船雅彦さん photo:Kaori Asada

200kmのヴィレンラジュヘルでナイトライドに移行していく。フランスでは道路交通法で夜間走行に限り反射ベストの着用が義務付けられており、特に先頭グループでは日中は誰も着用していない。そして太陽が沈んでいく中、みんなポケットからベストを取り出して着用していく。

日が暮れてきたチェックポイントにて photo:Kaori Asada

1時間経過からペースが速く、ときに時速38キロぐらいのアベレージで進んでいる。実際、350kmのタンティニアックまでスタートからのアベレージが35キロを超えていた。

特に「ヤバいな」と感じたのは緩い下りで、過去どの大会の時と比べても速く、現役時代のロードレースを思い出すようなハイペース。3、4%の緩い下りで時速65キロぐらい出ていた区間もあったが、ノーマルハンドルだとひたすらハンドル下にしがみついているイメージ。しがみついている間、プロ時代にも強力なチームが先頭を牽いている間、何度も無酸素の世界で下ハンドルにしがみついていた記憶が蘇る。

パリから1/3地点だと道標が教えてくれる photo:Kaori Asada
チェックポイントに用意した補給や着替え類 photo:Kaori Asada



チェックポイントではブルべカードに捺印と時刻サインをしてもらわなければならない。参加者の数とチェックをするスタッフの数のバランスが悪く、速く到着しないと待ち時間で置いていかれる。バイクをラックに置いてチェックポイントまでバイクシューズでランニング。2番目で捺印を終えてバイクに即座に戻る。

ここでボトル交換と補給食受け取り。そして次回チェックポイントに向けたリクエストやお互いの情報共有などを行うが、その時間は前半ほど時間が短く、手短にキーワードで伝えなければいけないが、今回は熱さで水分補給、そしてスタート前日から少し体調が良くなかったことで余裕がなかった。あまりしゃべることもできないままに再スタート。前は10人ほどなので問題なく集団に戻れるだろうと思ったのだが、ここは想定外だった。

チェックポイントから走り出していく三船雅彦さん photo:Yufta Omata

先頭で走り出したものが基準位置となるのだが、DHバーを装着していると基準位置が遠くなり、スピード差もあって追いつくのに消耗する。2015年の時はプロのレースの小便タイムのように、そこはペース上げちゃダメなところ!という雰囲気があったが、今回は違う。郊外に出てみるとテールライトがはるかに遠い。「このスタイルはフランス式じゃないな」と直感。そして後ろからやってくるグループに合流し、しばらくへばりつくようにして先頭復帰。追走グループもみなDHバーで、先頭交替に参加するのはほぼ不可能だ。

夜闇のなかチェックポイントに入ってくる選手たち photo:Kaori Asada

フジェールのチェックポイントのあと、さっさと郊外に出て小便タイム。しかしこれですら復帰できるのか?という流れ。そしてこの時後ろから来た大きなライダーがDHバーで爆走してきたので死に物狂いで食らいつく。彼も焦っていたのかそのまま闇で見えていなかった歩道の段差に勢いよく突っ込み、カーボンホイールであろう前輪が激しい音とともに割れてバースト!と理解した瞬間、その後ろにいた自分も歩道に乗り上げて、前輪から「バキッ」という音が響いた。

一言で言うと、非常に良くない状況だ。確認したいが止まると二度と先頭には戻れなさそうだし、今はまず追いつくまで我慢。ホイールよ耐えてくれ……と祈りながら走る。ここから規則正しく先頭交代でもしてくれれば、先頭に出た時しれっとペースを落としていってやろうと思ったが、なぜかみんな積極的に先頭へと出ていく。

タンティニアックのチェックポイントのあと集団から数人抜け出した。チェックポイントの後のペースの速さに半分以上が置いて行かれた。逆に言うと何人かは「意図的に」チェックポイントでペースアップをしていたということだ。

チェックポイントで待機していた浅田さんの話によると、先頭を狙っていたサポートチームの中には、どこでどう待機するか、すでに事前に下見を終えていたり、車2台体制で飛び石でサポートを行っている、グループの隊長のようなポジションの人が一人一人にどういう動きをするのか命令を出しているようなチームがいた、と。アメリカのクラブチームなども組織的なサポートで、チェックポイントにいるとその殺伐とした空気が怖かったです、まるで戦争みたいです!と。

DHバーといい、PBPの先頭狙いはもう中世の戦争ではなく、いつの間にか大きく近代化してしまっているようだ。フランス人は騎馬で刀を振りかざして攻めていったら、相手はシャーマン戦車てんこ盛りだったというイメージ。

コーラを飲むも、眠気が襲ってくる photo:Kaori Asada
ヌードルをつくる。温かい汁物は嬉しいはずだ photo:Kaori Asada



若干追走グループのペースが落ちたなぁ?と思って走っていると、背後から光の塊が近づいてくる。B組の先頭グループだ。彼らからすればA組に追いつけば最終タイムはマイナス15分。時間で見ると「勝ち」だ。

そして400km地点、あまりの速さと暑さで補給食をしっかりと摂れていなかった反動でハンガーノックに。今回スタート前から少し体調不良で、ほとんど気合いで走っていたがハンガーノックで千切れた瞬間に実は身体の中にエネルギーも体力も思考能力も余力がないことに気づいた。ここまでは集中しすぎてまったく見えていなかったのだろう。

皮肉にも感じるほどきれいな星空の中をスピードの上がらない脚で前へと進んでいく。先頭を狙ってここにやってきたのに先頭争いから脱落した。この事実はますます身体からエネルギーを吸い取っていった。

ふと前輪の状況も気になる。リムにはクラックが入っているし振れも出ている。もし走行中にリムが破断したら大怪我の可能性大だろう。そんなことを考えているうちに、次のチェックポイント、ルディアックでDNFすることを考える。完走することに意味を感じない。

しかしチェックポイントに着いて、同じように疲れているのに頑張っているスタッフを見ていると止めることも考えさせられてしまう。身体ボロボロでスピードは出ないが、とりあえずこのまま走ろう。

チェックポイントに補給物資を運ぶサポートのふたり photo:Kaori Asada
朝焼けのなか再び走り出していく photo:Kaori Asada



朝になりブルターニュの丘陵地帯が姿を現す。もしただ走るだけだったら最高に良い景色だ。寒暖差で霧が出ているが幻想的な景色だ。だが今の気分はそんなのどうでもいい。ハンガーノックで完全に身体は壊れていて、食べてもスピードは出ないし、今はこのままフィニッシュのランブイエを目指すが、どうせならランブイエもオレの方に歩み寄ってくれれば早くサドルから降りることが出来るのに、と。

多分先頭からは7時間近く遅れてブレストの町へ。「半分走ったしやめるなら今かなぁ」と思いつつ食べていると、もう少し走るかという気持ちになってくる。しかし今年のフランスは暑い。日本のようにコンビニなどで氷や冷たいドリンクが手に入るなら暑くても気にならないが、フランスで氷や冷えた水分をゲットするのは至難の業。そんなこともあるかも、とボトルはポーラーの保冷ボトルにしたので走行中にホットウォーターになることはなかった。しかし氷は必須だ。

PBPのチェックポイントのバナーが目印だ photo:Kaori Asada
CP内では矢印に沿って進み通過コントロールを受ける photo:Kaori Asada



復路のルディアックで2回目のナイトライドへ。ペースは上がらないが淡々と走れている。まだ睡魔は大丈夫かと走り出すが、タンティニアックまでの85kmは長い。半分を過ぎたところでやっぱり眠くなり、小さな町でバス停を発見しベンチで仮眠、15分ほど寝る。少しスッキリしてタンティニアックに到着し、またベンチで30分仮眠した。先頭で集中していればきついなりにも耐えられるのだが、今は耐えようという緊迫感が身体にない。こういう時は寝るほうがいい。


短い間の仮眠をとる三船雅彦さん photo:Kaori Asada

ヴィランラジュヘルを出発し、残りは200km。ここで走行中突然意識が飛んで落車してしまう。

右ひざ横を結構深く切り、これは多分縫合手術だな、と。そして右の額も切れているのか血が出ている。そして一番のダメージはリアの変速機が動かなくなっていたこと。

今までの経験で言うと起床してから53時間ぐらいが幻覚を見つつもぎりぎり自分を持ち続けられる時間。それ以上は人間である以上無理だ。今回の予定では44時間以内に終わる想定で動いていたが、もうこの時点でほぼその時間に達している。体力を思った以上に消耗し、アドレナリンでカバーできる位置で走っていないことも原因なのだろう。

「残り150kmほど変速無しかぁ……無理だな、ここでDNFしよう」そう思ったが、フィニッシュに戻る手段もない。いずれにしてもサポートチームの待つモルターニュ・オゥ・ペルシュへと進んでいく。

チェックポイントごとの到着予想時間を修正していく photo:Kaori Asada
チェックポイントのすぐ脇では夜も営業するカフェがあった photo:Kaori Asada



血を流しているし、何よりも登りで変速せずに登っているから目立って仕方がない。チェックポイントの救護スペースで傷口の消毒をしてガーゼをもらう。残り120km。そう考えると変速無しでも進めそうだ。ネガティブな自分と、そしてポジティブな自分。

変速できないぐらい、今までもっとキツイこともあったはず。昔の選手はシングルスピードが普通じゃないか!と。更にスピードは落ちるが進むことにする。

そして最終チェックポイントのドルーでは3回のナイトライドへ。そしてチェックポイントに到着した際に後輪パンク。残り40kmでパンクかよ……完全に試練だな。

リノがパンク修理をしてくれスタートしたが、数kmで再度パンク。異物が除去されていないか……予備チューブは1本のみ。もしこれで失敗したら……。街の明かりが明るい箇所を見つけてパンク修理。指でなぞるも異物がない。これは危険だ。いっそ大きなガラス片なんかがあってくれた方がパンクの原因がはっきりしているので対処しやすい。しかし今回のように原因がわからないと、最悪の場合パンク修理しても異物が残っていて再度パンクもあり得る。何度も何度も入念に見ると、指を押し付けないとわからないぐらい小さな異物。多分原因はこれだろう。天に祈る気持ちで空気を入れて装着。もうここまで来たら残り35km、パンクしてでもゆっくり走るしかない。

日が暮れたなかフィニッシュアーチで三船雅彦さんの到着を待つ photo:Kaori Asada

残り20kmになってからが地獄だった。頭は完全に思考能力がおかしくなり、何度も幻覚の世界に。幻覚が見えるというよりも勝手に物事を決めていっておかしい。理由は簡単だ。起きている時間が長すぎる。途中30分ほど仮眠したが、それでも疲労度合いが異常。そもそも3日ほど起きて活動しているのだから。

「あ、この家は知り合いの家だし挨拶していこう」「この道は間違っている。Uターンしたほうがいい」「もうフィニッシュせずにこのままホテルを目指してホテルで寝てもどうせ完走と同じだからまずはホテルだ」「主催者はルートを間違っている。ここから先、ルートはオレが考える」……。本当にそんなことを考えてUターンしたり立ち止まったり。

その都度「いやいや、おかしいのはオレだ。もう一人のオレだ。頑張れオレ!あと20km切った」と自分を鼓舞するも、1kmもすれば同じような状態になった。そしてよくわからないが気がついたらフィニッシュしていた。

完走メダルを受け取る三船雅彦さん。結果には満足していない photo:Kaori Asada

完走メダルを受け取って複雑な表情の三船雅彦さん photo:Kaori Asada
57時間25分。想定よりも半日以上遅かったが、振り返ればよくこんな身体の状態で完走できたな、と。しかしそれは現地で助けてくれたリノにザビエ、浅田さんのおかげで、日本からもたくさんの励ましがあったからだ。自分一人の力じゃ完走はしていないだろう。

先頭を狙って走った今回、正直なところこの完走に意味があるのはまだわからない。きっとその答えが出てくるのはこれからずっと先の事なのかもしれない。

今回のPBPで先頭争いは引退しようと決めていた。完走をしたときもその重圧から解放された気がした。しかしやっぱり悔しいものは悔しい。そう言えば前回大会、先頭でフィニッシュしたコーケンは56才。ウルトラディスタンスでのファストランは若さだけではない。今までの経験、成熟した能力、とりわけ人生経験が走りにプラスに作用しているように思っている。

今の自分に足りないのは、きっと人生経験なのだろう。まだまだオレは若造のようだ……。

text by 三船雅彦
photo:浅田かおり、小俣雄風太