リカルド・リッコ(イタリア)が3月に出場停止処分が明け、レース界に復帰するその一方で、未だに復帰への道筋が見えない被害者がいる。当時サウニエルドゥバルを指揮していたマッテオ・アルジェーリだ。イタリア在住のグレゴー・ブラウンが、リッコについて、そしてレース界復帰の意思についてアルジェーリ元監督に訊いた。

リッコのドーピング違反がもたらした多大な影響

2008年のツール・ド・フランスでステージ2勝の活躍を見せたリカルド・リッコ(イタリア)2008年のツール・ド・フランスでステージ2勝の活躍を見せたリカルド・リッコ(イタリア) photo:Cor Vos世界に新たな禁止薬物CERA(第3世代EPO)の存在を知らしめ、チームを実質的に解散に追い込んだリッコは、20ヶ月の出場停止期間を経て、2010年3月にチェラミカ・フラミニアの一員としてレース界に復帰する。

“コブラ”と呼ばれることを好んでいたリッコは、2006年にマウロ・ジャネッティ監督率いるサウニエルドゥバルでプロデビューを飾った。プロ入りに際し、ジャネッティ監督はUCI(国際自転車競技連合)に働きかけ、リッコがヘマトクリット値が生まれながらにして高いという証明書を得た。

フランス警察に連行されるリカルド・リッコ(イタリア)フランス警察に連行されるリカルド・リッコ(イタリア) photo:Cor Vosジャネッティ監督の期待に応えるように、リッコはプロ1年目から存在感を見せる。コッピ&バルタリのステージ優勝に続いて、ジャパンカップを制したことは周知の事実だ。

リッコは翌2007年にティレーノ〜アドリアティコでステージ2勝、コッピ&バルタリでステージ1勝、そしてジロ・デ・イタリアの神聖なトレ・チーメ・ディ・ラヴァレードにゴールする難関山岳ステージで優勝。それだけでも驚きの活躍だが、“コブラ”は2008年を更なる飛躍の年にしたいと意気込んだ。

2008年ジロ、リッコはステージ2勝を飾るとともに新人賞に輝き、アルベルト・コンタドール(スペイン)に次いで総合2位に。そしてステージ2勝を飾った運命のツール・ド・フランスで、CERA陽性が発覚した。その時点で、彼の高いヘマトクリット値が生まれながらのものでは無いことが証明された。

リッコはCERA陽性が発覚した初のスポーツ選手だ。そのスキャンダルの影響で、サウニエルドゥバルはツールを撤退。後にサウニエルドゥバル社はスポンサー撤退を決めた。

チームマネージャーのジャネッティは、フジ社やセルヴェット社の協力を得て何とかサイクリング界で生き残った。今シーズン、ジャネッティのチームは、靴の中敷メーカーであるフットオン社を新スポンサーに迎え、フットオン・セルヴェットとしてプロツアーレースを闘っている。

サウニエルドゥバル監督時代のピエトロとマッテオのアルジェーリ親子サウニエルドゥバル監督時代のピエトロとマッテオのアルジェーリ親子 photo:Makoto Ayanoその一方でレース界から姿を消したのが、マッテオ・アルジェーリ監督と、その父親で同じく監督のピエトロだ。「私たち親子は2008年9月の時点でジャネッティと決別した。重要な事案について意見が食い違ったんだ。騒動の渦中にあった我々は、責任を取ってチームから身を退いた」。

マッテオ・アルジェーリはかつてランプレに所属し、故フランコ・バッレリーニらとパリ〜ルーベを走った元プロ選手。引退後は最年少クラスの監督としてチーム運営に携わった。アルジェーリは監督としてプロ入り間もないリッコの面倒を見たが、決して彼と親密な関係になることは無かったと言う。

「最も密接な立場にあった父のピエトロも、リッコと上手く関係を築けなかった。それがリッコの最大の問題だった。彼を納得させ、指示通り動かすことは困難。いつも傍若無人に振る舞っていた。それが彼の強みでもあったかも知れない。でも明らかに最大の欠点だった」。

アルジェーリ指揮のもと、リッコは2008年のジロでステージ2勝を飾り、白い新人賞ジャージを獲得した。しかしアルジェーリ曰く、リッコはそのジャージを家の掃除用に持ち帰ったという。それが冗談だったかどうかは定かではない。

「リッコはもっと厳しい処分を受けるべきだ。セカンドチャンスを与えてはならない。例えば、職場の物を窃盗した犯罪者が、同じ業界に復帰するなんて有り得ないだろう。マーク・カヴェンディッシュ(リッコを“寄生虫”と揶揄)やマルコ・ピノッティ(リッコの復帰を批判)の意見には賛成している。リッコがレース界に復帰することを考えただけで吐き気がする」。

スポンサー探しに奔走するアルジェーリ親子

イタリアのバールでインタビューに応じてくれたマッテオ・アルジェーリ元監督イタリアのバールでインタビューに応じてくれたマッテオ・アルジェーリ元監督 photo:Gregor Brownアルジェーリ親子のロードレースに対する情熱は今も変わらない。しかし2人は、レース界への復帰が困難なことを身にしみて感じている。彼らは2009年にコンチネンタル登録のチームピエモンテを設立したが、スポンサーがスタッフへの給与支払いを拒否したため、僅か3ヶ月でチームは解散した。

2人は2011年に向けてプロコンチネンタル、もしくはコンチネンタル登録のチーム設立を目指している。もちろんスポンサーが集まればの話だ。

「リッコの薬物違反が彼の個人的な問題であり、チームが関与していないことをスポンサーに納得してもらうのは困難を極める。新たにスポンサーを獲得するためには、チームの規律やアンチドーピングの取り組み、リサイクルボトルの使用、環境に優しいチームカーの使用など、新たな切り口で提案していく必要がある」。

アルジェーリは16〜18名の選手が所属する小さなチーム設立を目指している。自らチームオーナーでありながら、監督を務めるようなチームだ。「全て決定権をもてるような小さなチームを一から作り出すことが必要になる。今のロードレース界で、全てをコントロール出来なければチームを運営出来ない」。

その夢を実現するために、アルジェーリはイタリアだけでなく、他国のスポンサー獲得も視野に入れる。少なく見積もっても、チーム設立には150万ユーロ(約1億8000万円)が必要だ。

「ロードレースがまだ目新しいヨーロッパ以外の国では、比較的スポンサーの理解が得やすい。しかし昨今の世界的な景気低迷と、ロードレースの宣伝効果の低さが我々の前に立ちはだかっている」。まだまだチーム設立への道は険しい。

アルジェーリは監督として何度かジャパンカップに来日している。最後に日本の印象を聞くと「ジャパンカップは好きなレースの一つ。またチームを率いて出場したいね」と語ってくれた。また近い将来、アルジェーリ親子がチーム監督として日本に降り立つ日が来るかも知れない。

text:Gregor Brown
photo:Gregor Brown, Cor Vos, Makoto Ayano
translation:Kei Tsuji



Gregor.Brown (グレゴー・ブラウン)

イタリア・レッコ在住のアメリカ人プロサイクリング・ジャーナリスト。2005、2006年ジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランス、春のクラシック等で綾野 真(シクロワイアード編集長/フォトジャーナリスト)に帯同し、取材活動を行う。2007年よりサイクリングニュース(イギリス)の主筆ジャーナリストとして活躍後、フリーランスに。2009年12月よりシクロワイアード契約ジャーナリストとなる。今後、主にイタリア・英語圏プロサイクリングメディアに活動の舞台を移す。