「これまで、そしてこれから」

あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願いいたします。

2011年も既にはじまりましたが、今季も宇都宮ブリッツェンは“Panaracer”ブランドのタイヤを使用して全てのレースを戦います。私個人としてもパナレーサーとのお付き合いは古く、この“ホイールトーク”もチームミヤタ時代から何度も書かせていただきました。
シクロワイアードに掲載されるようになってから書くのは初めてですので、改めて「これまで」、そして「この先の方向性」などを書いてみたいと思います。

「ロードレースをはじめたきっかけ」

サッカージュニアユース時代の栗村サッカージュニアユース時代の栗村 私は、幼稚園の時から中学3年までの約10年間サッカーに取り組んできました。途中から某ジュニアユースに昇格することができ、“それなり”の場所でボールを蹴ったりもしたものです。しかし、サッカー自体にはそれほど愛情は感じておらず、“なんとなく続けている”というのが実際のところでした。

ロードレースとの出会いは、中学1年の時にNHKで観た“ツール・ド・フランス総集編”の番組です。言葉では言い表せないほどの衝撃を受け、当時は家にビデオデッキがなかったので“カセットレコーダー”でテレビのスピーカーから聞こえてくる音声を途中から録音し、とにかくテレビにかじりついて観入ったのでした。

そして、子供ながら「この仕事をしたい、この場所を目指したい」と感じたのを今でも覚えています。

その後、中学2年生の時にロードレーサーを購入し、通っていた中学で“ロードレーサーブーム”が起きました。この頃にはサッカーからロードレースへすっかり興味が移行していたのです。

“ツール・ド・住宅地”を開催しては、1日でプロローグから山岳ステージ、クリテリウムなどを行い、イエロージャージも作ったりしました。町田にあるプロショップへ行く道のりには、何箇所もスプリントポイントが設定してあり、そこが近づくと皆で牽制を始めてモガキ合ったものです。

雨の日に開発中のニュータウン近辺を走ると、ダンプのタイヤに付いていた泥が道路上に流れ出ていて、前の友人のタイヤが巻き上げる泥で顔などが泥だらけになり、「パリ~ルーベごっこ」と呼んではテンション上げまくっていました。

今から25年前の話です…たぶん近所では有名な“競輪?自転車中学生軍団”だったのではないでしょうか?(笑)その頃、ツール・ド・フランスの存在を知っている日本人の数はごく僅かでしたから…

「選手としての歩み」

そして、高校に入学すると本格的にロードレースをはじめました。
しかし、すぐに最初の挫折に出会います。“自転車部がある”という情報を聞いて入学した高校の自転車部がすでに廃部になっていたのです。

中学生の頃から陸上の長距離が得意だった中学生の頃から陸上の長距離が得意だった 中学生の頃は陸上の長距離も得意で、神奈川県の中学駅伝大会で3位に入ったこともあり、高校入学の選択肢として名門校への推薦入学というものを先生から聞かされていました。それでも「ぼくはプロのロードレーサーを目指します!」と言って、一般入試で公立の高校に進んだのです。

当時先生たちは「プロのロードレーサー? やめとけ、箱根駅伝目指したほうがいいだろ」と言っていました…。そんな経緯もあったので、廃部という情報を聞いて、なんとも情けないやら恥ずかしいやらの高校生活がはじまったのです。

結局、川崎にあるショップのクラブチームに入ってロードレースをはじめました。学校にはいつも遅刻スレスレに到着し、練習をしたいので授業が終わると一番先に帰宅していたものです。 夏になると奇妙な日焼けとなり脚の毛も剃っていたので、周りからどんな目で見られているのか心配にもなりました。

年頃だったせいか「ロードレースをやっている」ということをあまり同級生には言えず…。というか、マイナースポーツなのでバカにされると感じていたのかもしれません。ただ、体育の授業や体育祭などでサッカーや陸上の長距離に取り組む場面があると、そりゃあ周りとは持久力に差があるので、存分に実力をアピールし、なんとか威厳は保っていました(笑)。

当然、サッカー部や陸上部から声はかかりますが、サッカーや陸上を選ぶなら既にユースでサッカーを続けているか、陸上の推薦で名門校に進んでいます。
自分が「真剣に取り組んでいる」ことを人に言えず、また、ロードレースでいくら良い成績を残しても"クラブチームの大人たち"は褒めてくれるけど、“学校の友達”にはなにも言ってもらえない。むしろ、“ただの帰宅部”という切ない状況を味わいました。

捨てたはずのサッカーや陸上でちょっと本気を出すと女子が話しかけてくるも、ロードレースのことはなんとなく恥ずかしくて積極的には言えない…。そんな微妙だった高校生活も、人より短い期間で終わりを迎えます。

「本場への挑戦」

高校2年の夏に学校を辞めました。理由はもちろん本場フランスにロードレース修行に行くためです。
高校進学の時もロードレースをやるために先生や親の助言を振り切り、またしても先生や親を悲しい気持ちにさせる決断をしたのです。本当に迷惑な子供でした…(笑)。

高校を辞め渡欧。フランスのジュニアカテゴリーを走った最初の日本人となる高校を辞め渡欧。フランスのジュニアカテゴリーを走った最初の日本人となる 恐らく私は「フランスのジュニアカテゴリーを走った最初の日本人」だったので、なんの事前情報もなく、また、今とは違ってインターネットや携帯端末などのコミュニケーション&情報ツールはまったく存在しておらず、全てが大変でした。
フランスに無事到着したことを母親に伝えられたのは、日本を立ってから1ヶ月後に送った1通の手紙。友達と連絡を取り合うのも手紙だと最短で往復2週間かかります。

それでもロードレースが文化として根づいているフランスでの活動は刺激的で楽しいものでした。自転車選手であることを世の中が受け入れ、ジュニアのレースといえども好成績を残せば翌日の新聞に載る。ごく当たり前のことなのですが、日本でロードレースを始めてからずっと持っていた“劣等感”のようなものが一気に払拭されたのです。

「プロへの階段」

その後、フランスでの修行を一旦終え、日本に戻ります。理由は、サッカー時代に患った膝の故障の手術や、個人での本場のレース活動の限界、経済的なものなど、色々とありました。ただ、ここでもやはり、ずっと感じてきた“孤独感”というのが原因の一つになります。

フランスでは常に外国人であり、言葉やビザの問題などが付きまとっていましたし、もちろん現地で働くことは許されません。町を歩いていると、アジア人ということでジロジロと見られ、子供に指を指されることもよくありました。
最初は楽しくて気にならなかったことが、長期間滞在しているとストレスとして表面化してきたのです。本場から撤退する以上は、もうここで自転車選手を辞めようかとも考えましたが、高校を辞めてしまった自分には後戻りする選択肢もありませんでした。

日本の実業団チームとしては初めてとなる“契約選手”という形でシマノレーシングに加入日本の実業団チームとしては初めてとなる“契約選手”という形でシマノレーシングに加入 「日本で立て直してもう一度本場へ挑戦しなければ」

そんな思いで国内でのレース活動を開始し、23歳の時にクラブチームに所属しながらで実業団の年間ランキングで3位に食い込みました。当時は実業団のチームランキングでメジャーレースへの出場権などが決まっていたので、ポイントをたくさん持っていた自分に対して多くのオファーがあったのです。

そして選んだチームは、当時最強メンバーを擁していたシマノレーシングでした。

当時のシマノレーシングは全員が正社員選手で、しかもそれなりの大学を卒業しているエリート系選手が殆ど…。そこへ、日本の実業団チームとしては初めてとなる“契約選手”という契約形態で、中卒の自分が加入した訳ですからある意味で異色だったのは言うまでもありません。

シマノレーシングに所属した2年間のなかで、再び自腹でフランスへの挑戦を行い、国内の主要レースでそれなりの成績を残しました。

そして、26歳(1998年)の時にポーランドのプロチームと契約を結びます。

26歳の時にポーランドのプロチーム、ムロズへ26歳の時にポーランドのプロチーム、ムロズへ 契約の内容は「タダ同然」のものでしたが、今でいうプロコンチネンタルカテゴリーのチームだったので、うまくいけばブエルタ・ア・エスパーニャへの出場の可能性があると言われていました。旧共産圏の地方都市ではフランス以上にアジア人が珍しいらしく、道行く人がもはや宇宙人を見るような目で自分のことを見ていたのを覚えています。

盛大に行われたチームプレゼンテーションの際に、ポーランド語の挨拶をマッサージャー(2010年のジャパンカップでランプレの監督として来日!)に教えてもらい披露したところ、それがバカ受けで、もの凄い拍手で包まれたのでした…(笑)

ただ、激しい環境の変化や、シーズン途中にベルギーに引っ越すなどをして走ったこの年のリザルトは、ツール・ド・ノルマンディー(フランス/現在のUCI2.2相当のステージレース) で総合83位、Rheinland Pfalz Rad Rundfahrt(ドイツ/現在のUCI2.1相当のステージレース/総合優勝はランス・アームストロング) 総合66位などであり、あとはベルギーのプロケルメス(現在ではUCIレース化されていて1.1や1.2のレース相当)を中心に走っていて、24位でゴールしたのが最高順位でした。

この年の世界ランキングは1071位。プロ1年目としてはそれほど悪くはないと言ってくれた人もいましたが、本当に厳しいプロのレベルに自信を打ち砕かれ、この年での事実上の引退を決意しました。この26歳のシーズンが、私にとって意識的な部分で頂点となった年だったのです。

「引退、そして現在へ」

チームミヤタ時代の栗村チームミヤタ時代の栗村 国内に戻ったあとは、自転車ショップで働きながらレース活動を続けました。この年の全日本実業団ロードと栂池ヒルクライムで2位となり、また、ツール・ド・台湾ではアジア人トップとなる総合3位に入ってしまったため、“シドニー五輪までは続ける”という目標を胸に、地元神奈川のチームミヤタと再び契約します。

そして、シドニー五輪代表選考会となった全日本選手権ロードは8位に終わり、本当にここで自分の選手生活に終止符が打たれたのです。「極端な海外志向」、「生き急いだキャリア」、こんな言葉がピッタリくる選手人生だったのかもしれません。29歳でペダルを踏むのを止めました。

その後、チームミヤタで監督を6年務め、2年間シマノでスポーツディレクターに就き、昨年から宇都宮ブリッツェンの監督に就任しました。

「これから」

今年はチームスタッフとして働きはじめて10年目となります。
この9年間の活動は、上記に書いてきた自分の選手人生のなかで感じた“難しさ”や“寂しさ”、“孤独感”や“矛盾”などを日本のレース界から取り除く努力を続けてきました。

引退後、チームミヤタで監督を6年間勤める引退後、チームミヤタで監督を6年間勤める 「選手時代は海外志向だったのに、監督になってから国内レースを重視するようになったね」と言われたことがあります。それは、表面的な部分しか見なければそう思うかもしれません。

ただ、自分のなかにある本質は“本場”であり、中学生の時に夢見た“ツール・ド・フランス”は今もなおまったく色褪せていません。ですので、自分のことを今でも“究極の海外志向”だと思っています。

日本人選手が安定的に本場へ“輸出”される環境を作るためには、空母となる日本国内のレース界を整備しなければ、これから先も同じことを繰り返す若者が続出するでしょう。これからは、「才能ある選手を広く発掘し本場に行く準備をさせる」という意識が重要になってくると思っています。

才能があっても心と体の準備ができておらず、本場で挫折していった選手を多く見てきました。逆に準備が出来ていても、才能がなければツール・ド・フランスには到達できません。

そして、本場への行き方が非常に重要となります。自分に合った地域に優れた環境をプラスしなければ結果は表われないでしょう。
海外で成功を収めてきた日本人選手たちというのは、単純に表現してしまえば、フィジカルの才能があり、心の覚悟ができていて、更に優れた環境に身を置けたからです。彼らは本当に優秀でタフだと思います。

ブリッツェンの監督となり、現場でのサポートやチーム運営に奔走ブリッツェンの監督となり、現場でのサポートやチーム運営に奔走 彼らが強くなったのは海外に行ったからだけではなくて、本場に順応できる要素を持っていたからです。そして、これから彼らに続く選手を育成する立場の人々が意識するべきことは、成功から学べることと、失敗から学べることの両面があるということを認識することだと思っています。

私自身の選手人生に関して言えば、理想的な失敗例だったのでしょう(笑)。

自分には、ツール・ド・フランスに到達するためのフィジカルな能力がなかったことはわかっています。しかし、もっと効率的でより良い環境に身を置けていれば、国内でも海外でもより優れたリザルトを残せたとも感じています。自分の失敗から学んだことこそ、今後の活動に活かす必要があります。

「夢」

いま、私は地域密着型チームという、新しいジャンルのチームでスタッフを務めています。そして、選手時代には何度も走った実業団連盟の企画委員にも就任しました。更には、J SPORTS というテレビメディアで、ロードレースの素晴らしさを多くの方々へ伝える役割も与えられています。

今後、全てが成熟し、更に全てがリンクし合った未来には、“ロードレース文化という名の箱” が出来上がっていると信じています。今の自分の夢は、その成熟した箱の中で、自分のチームを作って若い選手を育てることです。

皆が楽しめて、そして多くの仕事を生み出す箱作り、更に自分の夢を叶えるためにも、この先の数年は精力的にがんばらないといけません。

監督就任時、宇都宮ブリッツェンのチームカーとともに監督就任時、宇都宮ブリッツェンのチームカーとともに

プロフィール
栗村 修 くりむら おさむ
1971年12月30日 39歳
神奈川県横浜市出身
宇都宮ブリッツェン 監督

高校を中退して、自転車の本場フランスに単独自転車修行を敢行。
帰国後は実業団チームで実績を積み重ね、1998年にポーランドのプロチーム「MROZ」と契約し渡欧。
その後はミヤタで活躍し、現役を引退してからは、ミヤタで監督、シマノでスポーツディレクターを務めた後、現在に至る。

全日本実業団自転車競技連盟の委員や、「J SPORTS」の自転車ロードレース解説者も兼務し、その解りやすくサービス精神に溢れた解説にファンも多い。
Panaracer 「CG(Cedric Gracia) CX」
パナレーサー CG CXパナレーサー CG CX パナレーサー CG CX のトレッドパターンパナレーサー CG CX のトレッドパターン

MTBレース界のカリスマ、セドリック・グラシア選手との共同開発で商品化されたMTBタイヤ「CG XC」は、トレードマークの「CG」を活かした今までに無いトレッドパターンと、新技術のZSGコンボコンパウンドで、走りが軽いオールラウンドタイヤとして好評を得ている。

この「CG XC」のノウハウを注ぎ込まれたシクロクロス用タイヤが「CG CX (CYCLO CROSS)」。

700×32CでUCIの新ルールにも対応。合わせて、「R’AIR」でも待望の700×31~35C対応サイズがラインナップに追加されるので、シクロクロスのポテンシャルは一気に向上するだろう。

サイズ W/O 700×32C
スペック ZSG(ゼロ・スリップ・グリップ)コンボコンパウンド、
ASB(アンチ・スネーク・バイト)チェーファー、
アラミドビード
重量 300g(ave)
  2010年 12月発売予定


小坂光(宇都宮ブリッツェン)小坂光(宇都宮ブリッツェン) 小坂光(宇都宮ブリッツェン)のインプレッション

これまでに様々なクロスタイヤを使用してきましたが、CG CXはとにかく走りが軽い。クリンチャータイヤだと、リム打ちパンクを防ぐためにある程度空気圧を高めに設定することが多く、これまでのタイヤでは、快適性が犠牲になってしまうこともありました。

しかしCG CXはタイヤ自体が非常にしなやかなので、多少空気圧を高くしても振動が吸収されることで快適な上、素晴らしいグリップ力を得ることができます。タイヤのパターンも直進では抵抗が少なく、コーナーではしっかりと路面に食らいつくパターンになっているので、クリンチャータイヤをレースで使用するなら間違いなくこのタイヤが一番だと思います。素材・重量・パターンを総合して、とにかくしなやかなタイヤ。また、今のところパンクも無く、悪い点は見つかりませんでした。

製品情報:パナレーサーCG CX 新しいノウハウ採用のシクロクロス用クリンチャータイヤ
Panaracerサポート選手の注目リザルト
アジア大会2010 自転車ロードレース
2位 宮澤崇史選手(TEAM NIPPO)
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ツール・ド・フクオカ2010 クリテリウム プロ
優勝 藤岡徹也選手(TEAM NIPPO)
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トライアスロン 第2回アジアビーチゲームス・マスカット大会(オマーン)
優勝 細田雄一選手(グリーンタワー・ 稲毛インター)
Panaracerサポートチーム情報
2011年度の主なサポートチーム
UCIプロコンチネンタルチーム SAUR-SOJASUN (フランス)
UCIコンチネンタルチーム
ダンジェロ アンティヌッチィ・株式会社NIPPO
関連ニュース:ダンジェロ アンティヌッチィ・株式会社NIPPOのチーム概要
宇都宮ブリッツェン
大学チーム 鹿屋体育大学 自転車競技部(ロードレース)

提供:パナソニック ポリテクノロジー株式会社