「訪れた転機。18年の自転車人生を振り返る」

人には皆、転機が訪れる。たとえその時点では気付かなかったとしても、人生を振り返った時にふと胸に感じる出来事がある。そんな思いを、廣瀬敏が引退という大きな節目を期に、高校生のMTBレースから始まった自転車人生を今振り返る。

私が引退して3カ月。ツール・ド・おきなわを最後に引退したことが昨日のような感じがしています。
今回、このような場を提供して頂くことができましたので、簡単に私の自転車人生を振り返って書いてみました。

MTB時代の廣瀬。自転車レース出場のきっかけはロードではなく、マウンテンバイクだったMTB時代の廣瀬。自転車レース出場のきっかけはロードではなく、マウンテンバイクだった 私が自転車を始めたのは高校1年の春。私の友達の数人が、そのころ流行りだしたマウンテンバイクを町の自転車屋で購入し、その自転車屋でマウンテンバイクのチームを作るからということで「一緒にやらないか」と誘われたのが始まりでした。

その時はまだレースに出るというよりも、小学生の子供たちが自転車で競争するような感じで、毎朝、自転車屋の前に集合し、近所の山などを走り回って、誰が一番速いかを競う程度でした。

それから、2カ月位が過ぎたころ、近くでマウンテンバイクの大会があるという情報が入り、軽い気持ちで出場する事に。

そして、そのレースでまさかの優勝! しかも、一緒に参加した友達や弟の学も入賞し、表彰台を独占!その時の興奮や喜びは今でもはっきりと覚えています。一番下のカテゴリーでしたが。

ですが、私が競技者としてやっていきたいと思うようになったのは、この優勝ではなく、二度目のレース参戦で2位になった時でした。その時はものすごく悔しく、その悔しい思いをしたくないという気持ちで、真剣に自転車に取り込むようになりました。

この2位が競技者への第一歩になったのだと私は思っています。もしそこで優勝をしていたら、自転車を続けてはいなかったかもしれません。

MTBレースの2戦目で2位になったことの悔しさから競技者への第一歩を踏み出したMTBレースの2戦目で2位になったことの悔しさから競技者への第一歩を踏み出した 次の転機は大学4年の時。地元である石川県の能登島で大学生の大会「インカレ」が開催されることになり、私は大学生活の思い出として出ることに。

そのインカレでの結果は5位だったのですが、そこで自分を選手として育ててくださった、大門宏・現TEAM NIPPO監督と出会うことになったのです。

その時の私は、「自分の力を伸ばすためには今までと違う環境で、そして違う刺激を受けなければならない」と感じていたので、大門監督との出会いは今から思うと運命的でした。

今思うと凄いと思うのですが、大学を卒業してすぐに(正確には卒業する前の2月)、ヨーロッパのプロとして走ったのです。

なにせ、私はこの年までマウンテンバイクの選手であり、ロードの経験は大学の3レースと、中部8県、国体の計5レースしかなかった。そんな私がロードレースの本場のプロとして走る。しかも、ヨーロッパに渡ってからプロのカテゴリーで走ることを知ったのです。

それが自分にとって良かったのか、日本のロードレースとヨーロッパのロードレースの力の差を感じること無く、良い意味でのびのびと走ることができ、色々な物を吸収できたのではないかと思います。

「北海道優勝。しかし目標を失いかける」

大門監督の下で素晴らしい経験を積んだことにより、26歳の時には、自分がTEAM NIPPOに入った時からの目標でもあり、夢でもあったツール・ド・北海道で、区間優勝と個人総合優勝をとることができ、選手としての大きなステップアップをすることができました。

その時、個人総合のマラカイトジャージ(グリーンジャージ)を獲得した日の夜は、嬉しくてそのジャージを枕元に置いて寝たのを今でも覚えています。

しかし、北海道の優勝後、私は正直目標を失いかけていました。選手として目標を失うことは、やはり成績を残すことができなくなることにつながり、北海道での総合優勝後の1年間は、あまり成績を残すことができませんでした。

そこで、新たな気持ちに切り換えるためにチームを変えることに決めたのです。選んだチームは愛三工業レーシング。当時のナショナルチームで海外遠征を共にした田中光輝さん(現愛三工業監督)や新保光起さんがいて、チームの雰囲気が良さそうだったのがその理由でした。

「手術を乗り越え、復活を遂げる」

全日本実業団東日本ロードレース2005、表彰台の中央に登る廣瀬全日本実業団東日本ロードレース2005、表彰台の中央に登る廣瀬 Photo: Makoto Ayano 愛三工業への移籍後、東日本実業団で優勝したものの、その後、腰痛(ヘルニア)になってしまい、シーズン後半にはトレーニングもできず、レースをキャンセルしなければならない状態に。

ヘルニアは悪化するばかりで、あまりの激痛で夜も寝ることができなくなり、歩くこともできなくなってしまいました。

その激痛から早く解放されたいこと、そして早く自転車に乗りたい気持ちから、選手として相当な勇気と時間が必要でしたが、手術することを決意したのです。

手術は成功。3カ月後にはレースに復帰することができるようになり。ツアー・オブ・ジャパンが復帰後初のレースになりました。

こんなに早くレースに復帰できたのは、手術を担当して下さった浅野川総合病院の徳海先生の丁寧な手術と、手術後の身体のケアをして下さった接骨院の窪田先生のお陰です。

そんな復帰後の私に思わぬ朗報が。なんと、前ナショナルチーム監督の三浦恭資さんから、その年の11月に行われるアジア大会にお前を使うと言われたのです。

普通の監督ならば、ヘルニアの手術をし、まだレースに復帰したばかりの選手をこのような大事な大会には選ばないと思うのですが、自分のこれまでの走りを評価して下さったのと、私の可能性を信じてくれたのです。

私はここまで自分を信じてくれる監督の気持ちが大変嬉しく、三浦監督の為にやってやろうという気持ちになりました。 三浦監督に対するそんな気持ちは、私だけではなく、その時のナショナルチーム全ての選手が感じていたので、チームの士気はもの凄く高く、自然に成績にも表れるようになりました。

その結果として、ヘラルドサンツアー(オーストラリア)では区間優勝、ツアー・オブ・ハイナン(中国)では個人総合2位とアジア総合1位、そしてアジア大会のチームタイムトライアルで3位という成績を残すことができたのです。この成績は決して私個人のものではなく三浦監督をはじめナショナルチーム全員のものだと思っています。

2008年東日本ロード、廣瀬はJツアー初戦を飾る2008年東日本ロード、廣瀬はJツアー初戦を飾る photo:Hideaki.TAKAGI
2008年ツール・ド・熊野第1ステージも優勝。チーム(当時愛三)の中心選手として活躍した2008年ツール・ド・熊野第1ステージも優勝。チーム(当時愛三)の中心選手として活躍した photo:Hideaki.TAKAGI 現役最終年となった2009年、TEAM NIPPOへ移籍。レースで見せる積極性は変わらぬものがあった現役最終年となった2009年、TEAM NIPPOへ移籍。レースで見せる積極性は変わらぬものがあった photo:Hideaki.TAKAGI

「再び古巣へ。そして引退」

そして2009年,再びTEAM NIPPOへと戻ることになったのです。
この年のTEAM NIPPOのメンバーには、将来が楽しみな選手が多く、この選手たちに私の経験を少しでも伝える事が出来ればと思ったことと、この選手達のために走りたいと思ったのです。

TEAM NIPPOを率いる大門監督。2009年、廣瀬は自身の自転車人生のきっかけを作った恩師の元へと戻ったTEAM NIPPOを率いる大門監督。2009年、廣瀬は自身の自転車人生のきっかけを作った恩師の元へと戻った そのためにまず私が行ったのは、ヨーロッパ遠征の生活の中で、料理当番や掃除当番などの役割分担は一切決めないということ。

一見自転車レースとは関係なさそうなことですが、「誰かがやってくれるだろう」とか、「誰かがやっているから自分は何もしなくてもよい」という考えではなく、「今の自分は何をしなくてはならないのか」、「相手が何をもとめているのか」を考えさせ、自然に協力し合える選手になってもらいたい。これらの事が普段の生活から自然にできていれば、レース時に大門監督や私が指示を出す前に行動へ移すことができると考えたからです。

そんなシーズンでしたが、私自身は納得の行く走りが全くできていなかったので、シーズン最後のレースであるツール・ド・おきなわで優勝に絡む走りができなかったら引退するという思いでスタートに立ちました。

結果は...。ゴール後、今までの私ならば悔しい気持ちでいっぱいになるのですが、この時はやりつくしたという充実感と、来シーズンへの高いモチベーションを保つことが無理だと感じ、ゴール地点から宿まで帰る間に引退を決意したのです。

ツール・ド・おきなわ2009第1ステージのタイムトライアルを全力で駆け抜ける廣瀬。レース閉幕後、引退を決意するツール・ド・おきなわ2009第1ステージのタイムトライアルを全力で駆け抜ける廣瀬。レース閉幕後、引退を決意する photo:Hideaki.TAKAGI
今までの18年間。人生の半分以上を自転車で走り回って、多くの方と知り合い、素晴らしい経験をたくさん積み重ねることができました。

これも私を応援して下さった皆様、スポンサー各社様、大門監督、三浦監督、一緒にレースやトレーニングをした仲間、私のわがままを聞いてくれ、支えてくれた家族のお陰だと思っております。この場をお借りし、お礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

プロフィール
廣瀬 敏 ひろせ さとし
1976年生 33歳
学生時代から兄弟でMTB選手として活躍し、98年のMTB全日本選手権ではまだU23ながら8位に入賞。その後ロードに舞台を移し、2003年ツール・ド・北海道で優勝。2006年、ヘルニアの手術で戦列を離れるが、秋にはオーストラリアで行われたヘラルドサンツアー第4ステージで優勝し、見事復活を果たす。ドーハで開催されたアジア大会ではチームタイムトライアルで3位に入ったチームの原動力となった。
登坂力も備えつつ、ゴール前でのスプリントにも定評のあるオールラウンダー。2009年ツール・ド・おきなわを最後に引退した。

Panaracer カテゴリーS
ロードバイクで気軽にアーバンライドを楽しもうという方のために開発された新製品。カラーコーディネイトも楽しめるようにブラック・レッド・ブルー・ホワイトの4色がラインナップされている。

700×23C/230g
ブラックスキンサイド・アラミドビード

注)重量は平均重量のため実際の製品重量とは多少の誤差があります。
税込参考価格:2,270円
Panaracerサポートチーム情報
ホノルルマラソン 車イス:男子優勝(5連覇) 副島正純選手(C's Athlete)
ホノルルマラソン 車イス:女子優勝 土田和歌子選手(サノフィ アベンティス)

提供:パナソニック ポリテクノロジー株式会社