7月4日に行われた、グランフォンド・ラ・マルモッテ。ラルプデュエズをはじめとした超級山岳が次々に現れる、ヨーロッパ最大級のサイクルイベントの様子を、日本から参加した萩島美香さんによるレポートでお届けしよう。



グランフォンドという言葉は自転車乗りなら誰もが知る自転車イベントであることは日本でも浸透しているはず。でも、一体どういうものなのか、本場ヨーロッパのグランフォンドを知る人は少ないだろう。私の出場したこのグランフォンド・ラ・マルモッテは、ツール・ド・フランスでもお馴染みのHC超級山岳カテゴリーを「これでもか!」というほど取り入れているのが特徴だ。

グランフォンド・ラ・マルモッテ コースマップグランフォンド・ラ・マルモッテ コースマップ
グランフォンド・ラ・マルモッテ コースプロフィールグランフォンド・ラ・マルモッテ コースプロフィール 本来のラ・マルモッテのルートは、テレグラーフ峠とガリビエ峠が含まれているのだが、ガリビエ峠からアルプデゥエスを結ぶトンネル工事が間に合わず、急遽上記のルートに変更となった。変更を余儀なくされたのは私たちだけではない。7月25日のツールもルートの変更をしている。

このラ・マルモッテは、グランフォンドの中でも頂点を極めるほど人気が高い。ツールとほぼ同じルートを走ることに加え、ロケーションの美しさに息をのむ。私はレースをするから見ることができない。練習時にちょっと足を止め写真を収めた。7500人の定員で、開催される8ヶ月前からの11月に申し込みが開始されるが、ほぼ3日で席はなくなる。8ヶ月前からこの戦いが始まっていると言っても過言ではない。戦いという言葉を私は使っているが、グランフォンドの敷居は低い。スポーツ診断書さえ提出すれば誰でもが参加可能なのだ。

年齢と性別ごとにカテゴリーが分かれており、設定された時間内にゴールすれば完走タイムに対応したメダルをもらう事ができる。なので、私のようにレースをする人から金メダルや完走を目指す人など一人ひとりの目標は違う。また、ほとんどのグランフォンドが当日申込み可能なのに対して、このラ・マルモッテでは当日申込みが許されていないのも、大きな特徴の一つだ。とはいっても、日本のイベントでは大体そうなので、違和感は少ないだろう。

さて、それでは私がスタートラインに立つまでの準備を紹介する。さかのぼる事、今年の1月から11500kmの乗り込みで備えていた。初めて出場するにもかかわらず、私は表彰台にあがるという目標を掲げていた。体調はすこぶる順調だったのだが、5月に私のピークが来てしまった。これをこのまま7月4日まで持っていくのは非常に難しい。

私の主に取り組んでいたシクロクロスは40分の競技。私の挑もうとしているグランフォンドは7~9時間走る。ましてオランダには山がない。距離を見ずに自分が何時間走るかを想定して練習していたし、5月後半から6月までの間にベルギーやルクセンブルグにも走りに行って多少なりとも山の手応えをつかみたかった。

雄大な景色の中を走るグランフォンド・ラ・マルモッテ雄大な景色の中を走るグランフォンド・ラ・マルモッテ
でも、最後の1時間でいつも体がいうことを聞かなくなる。エネルギー切れだったり、脚が攣りかけ2秒前だったり。日々自分のからだと向き合う毎日だったし、免疫も落ちているのはわかっていたがごまかしていた。でも、そのごまかしも効かなくなり、2週間前とラ・マルモッテが迫ってきた矢先に病気で熱を出してしまった。おまけに今年のオランダは寒い6月。気管支に痰が絡んで体のだるさを感じながらの練習でその翌週をしのいでいた。

そんな矢先、練習仲間がラ・マルモッテの1週間前に開催されるグランフォンド・モン・ヴェントゥー135kmを走って現地入りするというので私も急遽便乗することにした。もちろん病み上がりで体が言うことを聞かないのは分かっていたし、気持ち控えめにレースをした。それでも、35°度の気温にかなり参っていた。

基本的に暑さには強いはずだったのだが、さすがに14年もオランダに住んでしまって暑さから長く遠ざかっていたせいもありまさにしんどい。本当はカテゴリーで1位だったのだが、私は来ていない練習仲間のナンバーでスタートしたためリザルトなし。でも、このグランフォンドのおかげで暑さに過剰反応することはなくなった。

トップで記念写真トップで記念写真 アルプデゥエス頂上で羊の放牧に遭遇アルプデゥエス頂上で羊の放牧に遭遇 スタート前のひとこまスタート前のひとこま 火曜日にモン・ヴェントゥーをあとにして、300km程北上にあるアルプデゥエスに向かった。頂上に予約していたホテルに到着して景色の美しさにしばし無言。水曜日が自分を試す最後の調整練習で、コル・デゥ・グランドンのルート確認を兼ねて出かけた。10%の上りが続く20km。途中で1回川を渡るため、谷に下りのあるところが特にリズムを失うし、脚に来る。それでもこの日はよく周りを観て楽しんで走った。たくさんの自転車乗りがここで脚を休めていた。

アルプデゥエス頂上で羊の放牧にも遭遇。とても素敵なことなのだが、道路はふんだらけなので要注意だ。木曜日は全くの休息日に当て、私は自転車店に飛び込んだ。実は、水曜にアルプ・デゥエスを上った際にギヤが足らないことが引っかかっていたのだ。その日は元気だから普通に上れたが、162kmを走ってからのアルプ・デゥエスは別物であるし、回すタイプである私には命取りの事態だ!練習仲間の助言から34×28から34×32へ。この32がなかったら完走していなかっただろう。それほど私には重要なことで、山のないオランダで32のギヤを入手することも出来なかっただろう。金曜日は車でコル・デゥ・グランドンから先のルートを確認し準備は整った。

土曜日、レース当日7時のスタートで、4時に朝食へ行き普通に食べる。スタートがアルプデゥエスの麓なので、ストレスのないよう6時に出掛けてゆっくりと下った。昨年ここで37位を獲った練習仲間の助言から、他の強豪女子と一緒にスタートした方が得策ということで私の戦歴をオーガナイザーにメールし、592番のナンバーを117番に変更してもらってほぼ先頭でスタートラインに立つことができた。

スタート4分前。これからどうなるかわからない展開にワクワクの私だ。私のすぐ後ろで微笑む白いヘルメットをかぶっているのが練習仲間のウェスリー。彼は25位でフィニッシュした強者だ。スタートしてダムを過ぎてからグランドンの20km上りが始まるが、それまでの集団は非常にナーバスな緊張感に包まれて、不意の段差でボトルが飛んできたりと″アテンツィオーン″と声をかけて周りに知らせる。

上りに入ってからは、自分のキープできるハイテンポで進む。聞こえるのは周りにいる人の荒い息づかいのみ。前から落ちてくる人や上がってくる人が入り乱れているが、それに対しての焦りは全然なかった。ただただ自分の維持できるスピードを保った。

それでも、シクロマラソンの女王イリス・ファンモーレンに抜かされたときはチェックした。でも、あまりのスピードの違いに付いて行く気力を失う。多分、10%の上りで時速3km/h違っていただろうし、174kmのまだ30kmも走っていないのに無茶はできなかった。グランドン頂上には知り合いがいて私が現在2番手であることを知る。それを聞いて「良し、悪くない。」と思った。

グランドンの下りで2年前に死者を出たことから、その区間はニュートラルゾーンとして時間が加算されない。心持ち肩の力を抜いて下るが、これから先の平坦区間をいいグループに乗って上りの入口まで行かなければ余計な力を使ってしまうと思い、抜かされてばかりではと多少集中。

キツイであろうと予想していた標高777mモン・フェリニェールが意外にも勾配が緩やかで助かった。しかし、次の標高1630mコル・デゥ・モラールの17kmに苦戦する。車での視察では日陰も多く勾配も緩やかに見えたが、じわりじわりとこの辺りから暑さも戦いの1つに加わっていた。

コル・デゥ・フェリニェールの頂上あとからは必ず止まり、各所のエイドステーションでボトルに水を入れ、休むことなくすぐ走り始める。次の山岳コル・デ・ラ・コロイデフェールまでの短い下りで、2人の女子と合流する。1人はオランダ人でエマ・ペターノット。Stravaで見たことのある彼女に私は話しかけた。「何歳?」「29歳よ。」という返答に、いきなり年齢を聞いといては失礼なので、「私は44歳なの。」と言うと、「このテンポでここに居るのは素晴らしい!」とお世辞をもらう。

エマにはパートナーがいて、この先にあるエイドステーションではパートナーが給水を行い彼女が止まることがなかったことで私は彼女から遅れを取る。もう1人の女性は必死にエマに付いて行っていた。2058mコル・デ・ラ・コロイデフェールで、もうすでに疲労が色濃く出始めていた。エマが遠くに見えて、″追いつけたらいいなぁ~″と思うが、自分の足元を見れば自ずと答えは″ノー″と出ていた。この辺りから、足を攣って止まっている人が増え始める。日陰はまずないし、岩山なので天辺が見えるのも気持ちをネガティブにする。

あそこが天辺だと思い込んでいたが、Garminの標高がまだ1890mだという残酷さ。まだ先があることを悟る。私が常に見ていたのは、この標高と心拍のみ。この頃から体に水をかけないと意識が低下するのを感じていた。やっとの思いで上り切るとまたすぐボトルに水をくみ、冷たい水をがぶ飲みし、またボトルを満タンにして走り始める。ここからは下り基調だが、グランドンの下りには谷がありコブ山がある。それも12%の勾配があるから厄介だ。

コル・デゥ・グランドンの頂上にてコル・デゥ・グランドンの頂上にて
ここでエマに付いていた女性と合流する。上りは私に分があったが、私の下りはあまりにも慎重すぎて遅い。昔は、特攻隊と言われるほど下りは速かったのだが、2人も子供を産んで私は変わってしまってもう攻められなくなっていた。下りで彼女から遅れるものの、多少の上りで追撃し追いつくことに成功した。でも、彼女の仲間か長らく彼女と走っていた男性かよくわからないが、その彼が私に意地悪をする。わざと彼女の後ろから離れて間隔をあけ、私に脚を使わせようとするのだ。

″ムカつく″今度は、別の若い男性が彼女にコーラを手渡す。″私にもくれ~!″と叫びたいところだったが、もらえるはずもない。向かって左がエマ・ペターノットで、右がアルプ・デゥエス麓まで私が戦った女性、誰だかさっぱりわからない。標高1880mアルプ・デゥエスの麓から第21コーナーに突入した。私に上りに部があると思って先行するも、第19コーナーでパッタリと時速6km/h。

ここからが私への拷問の始まりだった。気温38度。体感温度は45度。ギヤは32に固定で入りっぱなし。立ちこぎをしたいが、3踏みで脚が攣りかけ1秒前。第16コーナーに練習仲間がコーラを持って待っている。私の頭の中は葛藤だらけ、″止まりたい″″いや止まったら動けなくなる″。その繰り返しだった。やっとの思いで第16コーナーに着いて小さなコーラを手渡される。

″デカいのをくれー!″と頭の中で叫んでいた。簡単にコーラを飲み干しも呼吸が整わなくやはり動けない。埼玉県人であるのだが、頭の中でなぜか関西弁が、″あかん″とつぶやく。体に冷たい水をかけてもらい、「勾配のあるところはもう終わったから大丈夫。」と励まされどのくらい止まっていただろうか。あとで聞いた話だが、10分も止まっていたし、ゴールまで私がたどり着けるかすごい心配だったと練習仲間が言っていた。

トム・シンプソンの記念碑トム・シンプソンの記念碑
とりあえず心拍138になったのをみて踏み始めた。股は痺れているが脚が攣りかけ1秒前だから立ち漕ぎはできないし、そのあと股が痺れていることがこのあとどうでもよくなっていた。また1人小さな若い女性が私を凝視しながら抜かしていった。私の頭の中はゴールすることだけの意識を保つことだけで精一杯の直面だったし、彼女はすぐに見えなくなった。しかし、どこから見えなくなったはずの彼女が視界に入り、時速6km/hしか出なかったはずの私が無意識に踏み始めていた。

すぐ我に返って、頭の中で″私、壊れる″とつぶやいていた。彼女を見てはいけない、視界に入れて走ってはいけないと思い、その手前にある水場で1人男性が止まってボトルに水をくんでいるのを目にし、私も止まる決意をする。水が冷たくて目が覚めて一時生き返る思いだった。

それから4コーナーまでは覚えていない。4コーナーには、カメラマンが立っている。カメラに目を向けて笑う余裕など、0.1秒もない状況。泣きそうな顔をしているように見えるが、泣こうという涙の出る選択技もない。ただただ踏んで前に進むことだけしか考えていない。でも、止まって楽になりたい思いもあり、でも、止まったら2度と走り出せないのではないという怖さの葛藤と戦い続けていた。

それでも、第1コーナーを過ぎて残り1kmで木が数本の木陰を見つける。1人おじさんがそこで電話をしながら立っていた。とりあえず、ひと呼吸入れるしかなかった。メチャクチャ息の荒い私にそれでも話しかける。「日本人か?」もっと質問攻めにあっていたと思うがあまり覚えていない。ただ、私をちょっとそっとしていてくれる?と思っていた。それでも、そのおじさんも心優しく、残り少ないお水を私の首にかけてくれた。

「メルシー」と言ったかも覚えていない。もう走り切れると自信を持って走り始める。前には2人の男性が走っていた。一人はもう体が左に傾いていて限界をさ迷っているのが見て取れた矢先、もうひとりの男性の後輪が「パン!」と大きな音を放ちパンクした。頭の中で、″済まない、私はゴール目指す″とつぶやいて抜かしていった。

意識もうろうでゴールした。どうゴールをしたか覚えていない。この写真を見て笑ってガッツポーズをしていたのを思い出した次第で。このあと、立っていられず日陰を探して横になっていると、私の呼吸に驚いたオランダ人が救護を呼んで、私は救護室のある体育館に椅子に乗って連れて行かれた。

夢にまで見た表彰台に登った夢にまで見た表彰台に登った
呼吸が整うのに時間がかかったのと、多少の震えとめまいがあったため動けなかった。血圧も90-60と低かったら、もうふらふら。コーラを少しずつ飲んで休んでいる途中私の電話が鳴る。娘の愛美からだった。「今、ママ喋れないからあとにして。」と言って切った。コーラが空になるとだいぶ意識もしっかりしてきてお腹もすいて来たことで私自身大丈夫だと判断し、ドクターに許しをもらって外へ出た。

すると、マイクロフォーンで私の名前が呼ばれているではないか!あまりの人だかりにステージがどこにあるのか一瞬分からなかったが、多少の千鳥足でステージへ向かった。私の目指した夢の表彰台。カテゴリー女子35~49歳の部第3位。感無量の瞬間だった。

気温45度。1時間ごとにパワージェルとエナジーバーを食べ、5リットルの水を飲み、7時前に1度トイレに行ってから5時までトイレを必要としない異常な状況。最後の超級山岳カテゴリーアルプ・デゥエスは、私にとってどのような感覚であったかを表現するならば、パワーマックスでスプリントをしたあとそのまま休むことなく1時間40分踏み続ける状態と例えられるだろう。これほど過酷な思いをしたのは長い自転車経歴をもった私でもこれが初めてだ。

残念ながらこの大会からまた死亡者が出てしまった事を報告する。あまりの暑さで、51歳、男性、オランダ人の死亡が確認されている。彼のご冥福をお祈りする。7500人申し込みで、4678人完走。このように過酷であった。私はダイエットを解き放ち、好きなものを食べまくっている。 私の長い文にお付き合いいただき、ありがとうございました。