栗原朗JCAD(日本障害者自転車協会)理事に訊く、チームマネジメントというもうひとつの“戦い”第3回。さてここからは、アテネ大会終了後の実際のチームの動きを順に追ってゆこう。

1kmTT[CP4]で銀、個人追抜[CP4]で銅、ロードTT[CP4]で銀と、鮮烈な国際大会デビューを飾った石井。(2006.9.11、エーグル)1kmTT[CP4]で銀、個人追抜[CP4]で銅、ロードTT[CP4]で銀と、鮮烈な国際大会デビューを飾った石井。(2006.9.11、エーグル) photo: Yuko SATO / UCI

【4】アテネを終え、新チームがスタート



■2006年9月 スイス・エーグル、世界選手権
 プロスタッフ態勢、本格始動

――アテネが終わり、いよいよ北京に向けての始動です。2006年7月に秋田県大潟村で行われた日本障害者自転車競技大会(ロード)で、アテネ五輪で健常者の自転車競技のコーチを務めた班目さんが、北京大会に向けてのパラサイクリング日本チーム新監督として紹介されました。そして2カ月後の9月にスイス・エーグルで行われた、IPC自転車世界選手権大会。IPCの名のもとで、実際にはUCIが初めてオーガナイズした、障害者カテゴリの世界選手権大会です。日本からは、視覚障害クラスのパイロット(タンデムの前に乗る健常者選手)を含む8選手が出場しました。

栗原「エーグルの大会の2カ月前に選手選考を完了し、合宿を行いました。選手の顔ぶれはそれまでとはかなり変わりました。」


――ハンドサイクル部門にも日本チームとして初出場しました。また、後に北京で金銀銅の3つのメダルを獲得する石井雅史[CP4]選手も、この大会が障害者カテゴリでの国際大会デビュー戦です。
 チームの指導も、以前の、監督による折々の助言という形から、班目監督がずっと継続して練習を見られるようなスタイルになっていきましたね。

北京前の合宿で。選手たちの練習記録をつける班目監督(2008.8.17、修善寺)北京前の合宿で。選手たちの練習記録をつける班目監督(2008.8.17、修善寺) photo: Yuko SATO栗原「全体のトレーニングとして、やはり、素晴らしい内容です。合宿の最初は、不慣れさから練習中の落車などもありましたが、徐々に班目監督の指導が浸透していきました。エーグル大会では自信がなく『せめて1個メダルを獲りたいな』と思っていたのですが、結果は4個。知らないうちに練習で力がついていたのだなあ、と思いました。」

――「選手個人ごとに、私的なつながりでサポート者を随行する」という形ではなく、「チーム全体をサポートするプロスタッフのチーム」というスタイルも、この大会で本格的に始まりましたね。JCFのエリートナショナルチームのスタッフの、力の影響は感じましたか?

栗原「岩井正二郎さんは五輪のメカニック経験があり、トレーナーの石田宗男さんはナショナルチームの現役スタッフでしたので、『スタッフが素晴らしいので…』と、選手の意識を高めるのにも、これはおおいに働きました。」

――選手の意識が変わって行ったと。

栗原「そうです。大会前は、まだのんびりした空気があったので、06年7月に、選手にメールを書きました。『国際大会は国際交流ではない、戦いだ』と。それは徹底して言い続けました。そして、エーグルでの好結果。それを受けて、チーム意識も次
第に芽生えていきました。」

大城竜之(パイロットは高橋仁)も男子ロードレース[B&VI]で9位と健闘。(2006.9.18、エーグル)大城竜之(パイロットは高橋仁)も男子ロードレース[B&VI]で9位と健闘。(2006.9.18、エーグル) photo: Yuko SATO / UCI――エーグル大会での課題は。

栗原「まず、障害クラス分けの問題です。スイス現地で行われたクラス分けチェックで、8名のうち1名は出場資格を認められませんでした(※)。国内のクラス分けは国際資格を持つ者がやっているわけではないので、そのあたりにはボランティア団体の限界を感じました。」 (※出走は認められたが、記録からは除外された。)

――自転車以外の種目でも、国内外のクラス分けの判断の違いについては、しばしば問題になっているようですね。クラス分けの国際資格を持つ人の関与が国内大会でも必要ということでしょうか。

栗原「それについては今後の課題です。他の競技でクラス分けの国際資格を持つ人に、自転車の資格もとっていただき、今後入ってもらえるようにするなど検討しています。」

――資金面についてですが、トランスポーターに大きなレンタカーを借りられたりと、諸々で相当な額が必要だったのでは。

「多額を個人で背負ってしまいました。補助金もわずかで、ご支援もありましたが、やはりとても足りませんでした。これはまいった、と。しかし、素晴らしい選手とスタッフによる素晴らしいレースが本当に連続し、まあ、とりあえず良かったかな、と…。これ以降もそうですが、私の立場でも選手と同様に戦っているのです。もがき苦しむことの連続ですが、この年から、選手もスタッフも素晴らしい方々が多く来てくださったので、救われますね。」


■2007年8月 仏・ボルドー、世界選手権
 北京へ確かな手応え

メダリストの1人として大会ポスターにサインする石井。ボルドー大会では3つのメダルを獲得、実力をアピールした。(2007.8.21、ボルドー)メダリストの1人として大会ポスターにサインする石井。ボルドー大会では3つのメダルを獲得、実力をアピールした。(2007.8.21、ボルドー) photo: Yuko SATO / UCI――その翌年。初めてUCIの名を冠して行われたパラサイクリングの世界選手権が、2007年8月にフランス・ボルドーで行われた「UCIパラサイクリング世界選手権」ですね。この大会で日本チームは、石井雅史が1km個人TT[CP4]で世界新記録の金・個人追抜[CP4]で銀・ロードレース[CP4]で金、藤田征樹が1kmTT[LC3]で銀、小川睦彦がロードTT[CP2]で銅と、メダル5個を獲得。北京に向けてその実力のほどをおおいにアピールしました。この大会への準備期間について、お聞かせください。

栗原「エーグル大会の後は2007年にむけて、反省点を生かすべく、すぐ活動を始めました。スイスから帰国の2カ月後には乗り込み合宿を行ったりしました。一部に偏らずにいろいろなクラスの選手が参加して一緒に走った、いい雰囲気の合宿でした。」

――一体感のあるチームの下地が、徐々にできていったと。

栗原「2007年は3月から本格的な合宿を行いましたが、それ以前にも月に1~2回、ミニ合宿を行いました。班目さんのプログラムのもと、色々な練習をしました。そんな中で次第に、枠を獲りにいく、勝ちに行くという意識の共有ができていきました。」


――ボルドー大会4カ月前の4月には、日本障害者自転車競技大会(トラック、ロード)が愛知県で開催されました。北京ではメダル3個を獲得した藤田さんが、初めてJCADの大会に参加したのはこの大会、ロードTTですね。栗原さんがレース後に「世界を狙ってみないか」と熱心にスカウトの声をかけられていたのを記憶しています。当時22歳、東海大の学生で、トライアスロンの実力をベースにした好タイムでした。その後は誰もが驚く急成長ぶりでしたが。

ロードTT[LC3]の好タイムで注目された藤田。(2007.4.15、愛知)ロードTT[LC3]の好タイムで注目された藤田。(2007.4.15、愛知) photo: Yuko SATO / JCAD栗原「スカウトってわけではないですよ… 藤田くんについては、トライアスロンをバリバリやっていたのだから、中長距離の下地は十分あるはずですし、まだ若いから色々と適応力もあるとは思っていました。自転車のトラック競技の経験はなかったにもかかわらず、ボルドー大会前の最後の合宿では『メダルが獲れるかもしれない』という感触があり、驚きました。」

――トラックの専門家の班目監督、地元の平塚バンクを練習拠点にする面倒見のいい先輩・石井さんの好影響も大きそうですね。そしてボルドー大会は、獲得できるポイントが高い世界選手権とあって、選手のみなさんは連日、出られる限りの全種目に出場してほぼすべてを完走。大変素晴らしい頑張りでした。

栗原「2007年は、北京の出場枠獲得競争のメインとなる大事な年だったので、とにかくポイントをかせがなくてはいけませんでした。できるだけ多くの種目に出場してできるだけ良い成績を、という方針は、じつは監督にも選手にも不評でした。しかし『種目は2008年に絞ればよい。ポイントを稼げば北京での出場枠の拡大につながる。選手が増えれば予算配分も増え、スタッフも増やせる』と理解してもらいました。」

――北京パラリンピックの自転車競技の出場枠は、どのように配分されたのですか。

栗原「選手個人に対して枠を与えられるものではなく、国別の獲得ポイントに従って人数を配分されます。その国の各クラスのトップ選手の、全種目のポイント総合計で計算します。ということは、同じクラスに複数の強い選手がいても、枠にかかわるポイントとしては1名分しか計算されないということです。ボルドー大会で一つのクラスや種目だけ強くても、例えば視覚障害クラスのタンデムの1kmTTだけが1・2・3位でも、効率的にポイントを稼ぐことはできない。多くのクラスで強い選手が、できるだけ多くの種目で上位に入ることが、枠獲得には必要でした。」

男子1kmTT[LC3]で銀メダルを獲得、周囲を驚かせた藤田(左)。世界新をマークした中国のリャン・グイ・ファー(中央)とは0.545秒差(2007.8.21、ボルドー)男子1kmTT[LC3]で銀メダルを獲得、周囲を驚かせた藤田(左)。世界新をマークした中国のリャン・グイ・ファー(中央)とは0.545秒差(2007.8.21、ボルドー) photo: Yuko SATO / UCI――ポイント獲得についての、狙いや作戦は。

栗原「世界選手権で獲得できるのは、順位点×4点です。これは非常に極端な例で、こんなことは実際にはないと思いますが、仮に金メダルが1つと11位以下が3つの場合は、60+4+4+4で72ポイントです。でも、4位が4つなら、36+36+36+36で、倍の144ポイントになるんです。ボルドー大会では、一部の選手だけがメダルを獲ることが重要なのではない。だから、『みんなでポイントを稼いで、みんなで北京に行こう』と、出発のとき空港で、みんなに言いました。残念ながら、出場枠は4つで、みんなで行くことは叶いませんでしたが…。」

――ボルドー大会を振り返ってみて、いかがですか。

栗原「反省点は、お金がすごくかかったこと。合宿費は選手に払わせずJCADで負担しました。ボルドー大会は、結果は5個のメダル、4位が2つ。過去最高のポイントを獲得しましたが、ロードのポイントについてはそれほど稼げなかった。また、チームの監督・メカニック・トレーナーは素晴らしかったのですが、それ以外でのサポートスタッフのマンパワーが足りずにベストではなかったのは残念です。現場では裏方の戦力となりうる、多岐にわたる能力が要求されます。北京パラリンピックでは、大学に籍を置く若いスタッフが、非常に力を発揮してくれました。今後も若い学生さんなどに真摯ないい人材がいれば、ボランティアサポートスタッフとしてご協力いただければ、大変ありがたいと思います。しんどいかもしれませんが、若い人にとって、素晴らしい経験になると思います。」

 ボルドー大会で北京への大きな手応えをつかんだ日本チーム。このわずか3カ月後、石井と藤田はまたもや、世界が驚くタイムをそれぞれ叩きだすことになる。
<vol.4に続く>

text:佐藤有子/フォトジャーナリスト。2006、07年のパラサイクリング世界選手権及び08年の北京パラリンピックにてUCIのオフィシャルフォトグラファーを務める。


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