マッサーとして欧州プロチームで13年間活躍してきた中野喜文さん(現アスタナ所属)。いつか目標にと考えていた欧州での仕事のスタートは思いのほか早く訪れた。

サーティワン時代、ツール・ド・台湾に出場した中野さん。左は栗村修さん(現宇都宮ブリッツェン監督)サーティワン時代、ツール・ド・台湾に出場した中野さん。左は栗村修さん(現宇都宮ブリッツェン監督) マッサーを志す前は自転車選手だった中野さん。サーティワン・ジャイアントに所属した頃の写真では、隣に現宇都宮ブリッツエン監督の栗村修さんが写っている。

中野さんの競技人生は、高校の自転車競技部に入部した16歳から始まり、23歳で終わる。写真の92年ツール・ド・台湾のときには、すでに鍼灸マッサージ師として、自転車競技に関わる夢を抱いていた。
専門学校を経て、鍼灸マッサージ師の国家資格を取得。スポーツマッサージ専門病院に勤めながら、日本鋪道レーシングチーム(現ダンジェロアンティヌッチィ・NIPPO)でもマッサージ師として活動していた。

リーゾスコッティでともに働いた永井孝樹氏と。2人はその後ファッサボルトロでもチームを共にするリーゾスコッティでともに働いた永井孝樹氏と。2人はその後ファッサボルトロでもチームを共にする photo:Makoto.AYANO「98年4月15日に大門宏監督から『イタリアでマッサージ師が大量に抜けたチームがある。補充で行かないか?』と声をかけられたんです。それがリーゾスコッティでした」
それからわずか半月後、中野さんは、現在、サイクルショップ「ポジティーボ」のオーナーであるメカニックの永井考樹さんとイタリアの地に立っていた。
年に1ヶ月ほど、日本鋪道に帯同してのイタリア遠征の経験はあったが、ヨーロッパのチームで働くとなれば、当然ながら、勝手が違う。イタリア語もまったくわからず、頼れるのはマッサージ師としての手技だけだ。

「完全に浮いてますよね」
リーゾスコッティに加入直後に撮った写真を見ながら、中野さんが笑う。食事をする選手やスタッフの中で、中野さんが一人、カメラを向いている。明るく笑っているが、どこか表情が所在なさげだ。チームはツール・ド・フランスにも出場。中野さんも初のツール帯同を果たした。マッサーとしての夢の実現には違いないが、大舞台過ぎた。

リーゾスコッテに入りたての中野喜文(右)「完全に浮いている」と本人が言うとおり、まだチームに溶け込めていなかった時期だ(98年ツール・ド・フランス)リーゾスコッテに入りたての中野喜文(右)「完全に浮いている」と本人が言うとおり、まだチームに溶け込めていなかった時期だ(98年ツール・ド・フランス) photo:Makoto.AYANO


トップスプリンターのニコラ・ミナーリ(イタリア)をマッサージする中野さんトップスプリンターのニコラ・ミナーリ(イタリア)をマッサージする中野さん photo:Makoto.AYANOそんな中野さんが「1日24時間のうち、3時間だけは心が安らいだ」というのが、マッサージの時間だ。言葉は通じなくても、手の温かさを通じて、心は伝わる。鍼や指圧といった東洋医学の手法を取り入れながら、誠実にマッサージをする中野さんの評判は、選手やスタッフ、メディア関係者などの間で徐々に高まっていった。

じつは渡伊前、中野さんは日本舗道の大門監督から貴重なアドバイスを受けていた。
「スタッフとか近所のおばさんとか、とにかく周囲にいる人を捕まえて、マッサージして喜んでもらえ。うまくいけば、それがお前の突破口になる」

その言葉通り、中野さんは相手が誰かも深く考えず、求められるまま、マッサージを施していた。その中に、アドリアーノ・デ・ザンがいた。イタリア国営放送の名物実況者だ。

イタリア国営放送の名物実況者 アドリアーノ・デ・ザンイタリア国営放送の名物実況者 アドリアーノ・デ・ザン 「施術のあと、彼は中継の合間に必ず僕の話をしてくれたんです。ロードレースの中継は長丁場だから話題が欲しかったんでしょうけど、僕にとってはすごく励みになったし、うれしいできごとでした」

中野さんの手は、もう一人、運命的な人物との出会いも生み出した。のちにファッサボルトロの監督になるジャンカルロ・フェレッティだ。フェレッティは、ジロの間、運転中の首の痛みを和らげたいと、たびたび中野さんのマッサージを受けていた。
「当時の僕は、誰か本当にわからなくて、面白いおじさんだなぁと思ってたんです(笑)」

自転車競技選手の移籍は、めまぐるしい。1年でエースもアシストも激しく入れ替わる。チームの消滅も珍しくない。スタッフもその波に巻き込まれる。
中野さんもリーゾスコッティが資金難で解散。翌年、リーゾスコッティのトップスプリンター、ニコラ・ミナーリに引き連れられ、正式なスタッフとして加入したカンチナットロでは、ずさんなチーム運営に振り回された。

日本とは価値観もルールも違うヨーロッパならではの荒っぽい洗礼を受けた中野さんだからこそ、後輩たちには、「日本で知識と経験を身につけてから、渡欧したほうがいい」とアドバイスする。

一般的にスポーツトレーナーを志す人が海外で学ぶ場合、アメリカを選ぶことが多い。体系的な教育システムが確立しているからだ。一方、ヨーロッパはスポーツトレーナーの教育システムが確立していないため、まずは理学療法士として勉強をすることになる。

 自転車競技の場合、本場のヨーロッパで一から勉強したいと中野さんに相談するマッサージ師希望者は少なくないが、理学療法士のカリキュラムはヨーロッパも日本もそう違いはない。むしろ、日本のほうが優れている部分もある。であれば、日本で基礎知識を身につけ、経験を積んでからヨーロッパを目指した方が即戦力になるため、活動の幅が広がる。

「歴史があるヨーロッパは、日本人が考えている以上に封建的な面がある。チームもいい組織があれば、悪い組織もある。思いがけない落とし穴も。日本人が入り込み、活躍するのは本当に難しい。だからこそ、日本で実力を蓄えてから渡欧することが、自分を守ることになる。僕はそうした情報も伝えながら、若い人とヨーロッパを結ぶパイプ役になりたいと思っているんです」。






Profile
   中野喜文さん   中野喜文さん 中野喜文 (なかのよしふみ)
1970年4月5日生

鍼灸按摩マッサージ指圧師
テカール・ジャパン・アドバイザー
アスタナ・プロチーム(カザフスタン)専属マッサー

経歴
:日本鍼灸理療専門学校本科卒業
1995年~1998年:小守スポーツマッサージ療院所属、日本舗道レーシングチーム、世界ジュニア自転車選手権日本代表
1998年:イタリア、プロサイクルロードチーム、リーゾ・スコッティに研修生として渡欧。
日本人のマッサージ師として初めてジロ・ディ・イタリア、ツール・ド・フランスに帯同
1999年:カンティーナ・トッロチームと契約。この年からイタリアを拠点とした活動を本格スタート
2000~2005年:ファッサボルトロ所属。
自転車競技界の重鎮フェレッティ氏の元、世界トップクラスのスタッフに囲まれトレーナー活動、チーム運営のノウハウを学ぶ。(2001年、2003年UCI世界ランキング1位チーム)
2006~2010年:リクイガス所属。
ダニーロ・ディルーカの専属マッサージ師として2007年ジロ・ディ・イタリア総合優勝をサポート。その後は新世代のサイクルロード運営を目指し、世代交代に力を入れたチーム運営に関わる。
2009年世界自転車選手権チェコ代表マッサー。
2010年UCI世界チームランキング2位
2011年:13年間在住したイタリアを離れ、日本を拠点とし活動をスタート。
テカール・ジャパンのアドバイザーに就任。
アスタナチーム(カザフスタン)専属マッサージ師

中野喜文 オフィシャルサイト

text:Naoko.TSUNODA
photo:Makoto.AYANO